「大戸屋」赤字転落は“値上げ”や“お家騒動”のせいではない 専門家が指摘するもっと深刻な理由
かつては超低価格路線
720円というリーズナブルな値段が人気だったのだが、こちらは値上げではなかった。4月の改定でひっそりとメニューから消えたのだ。姑息という見方もできるだろう。これに気付いた常連客がSNSなどに怒りの投稿を行うと、大戸屋は10月に慌てて復活させるなど迷走した。経済担当記者が解説する。
「大戸屋の“安さ”を社史から辿ると、興味深いものがあります。同社の原点は1958年に池袋で開店した『大戸屋食堂』です。全品50円、白米だけの注文や佃煮の“ボトルキープ”が可能という超低価格路線で、1日1000人が来店する繁盛店だったそうです。そして客層ですがサラリーマンは皆無で、貧乏学生と労働者がメイン。従業員は流れ者が多く、お店はすさんだ雰囲気だったといいます」
大戸屋ホールディングス会長を務めた三森久実氏(1957〜2015)は、伯父で大戸屋食堂を創業した三森栄一氏に子供がなかったことなどから、養子となっていた。
高校を卒業すると新宿の洋食屋でコック見習いとして働き始める。「将来はフランスに留学しようか」と考えていたところ、20歳になって養父の栄一氏が急逝。久実氏が後を継ぐことが決まった。当時を振り返ったインタビュー記事が今も「ベンチャービジネスONLINE」に掲載されている。
《店の借金はほとんど皆無でした。その上、キャッシュで数千万円あまりのお金があったので、資金面では不安はありませんでしたね。しかし、問題は人材の面にあったのです。当時、大戸屋の従業員の多くは、いわゆる流れ者。賃金の安さを理由に包丁で脅されたこともありました。それに、酔っ払っていても平気で店に来るし、無断欠勤なんて当たり前。従業員の間でもけんかが絶えず、寮の前にはいつもパトカーか救急車が止まっている。そんな状態からのスタートでした》
この頃の大戸屋は「あまりに安すぎて、一般客は行かない店」だったようだ。久実氏は店舗のレベルアップとチェーン化に挑戦。1983年に株式会社を設立し、高田馬場と吉祥寺に出店を果たす。
この頃も格安路線が継承されていたことを示す新聞記事がある。読売新聞が89年2月に掲載した「きょうの仕事も厳しいぞ 朝がゆ、定食、モーニング ターミナル駅周辺で朝食を」の記事だ。
文中で上野駅や東京駅で営業する定食屋は、朝の和定食を450~680円で提供していた。ところが池袋の大戸屋は290~400円なのだ。メニューを引用させていただこう(註:デイリー新潮の表記法に合わせた、以下同)。
《定食A(納豆、生卵、焼きノリ)290円、定食B(焼き魚か煮魚、小鉢1、2品、焼きノリ)360円、定食C(目玉焼き、ハム、パン、コーヒー)400円、朝がゆセット400円。単品で、サラダ類、煮物など30-40種類もある》
大戸屋が興隆を迎えるのは92年。吉祥寺店が火事で全焼してしまったのだが、これを文字通り「災い転じて福と成す」ことに成功する。
「久実氏は女性客を意識した店舗にして再建しました。吉祥寺店に女性が多いことに気付いていたからなのですが、この路線で大戸屋の急成長が始まります。吉野家は今でも男性客が中心で、女性客の獲得に苦労しています。ところが大戸屋は90年代から女性客をターゲットに据え、内装に気を使い、健康的な定食をゆっくり食べたいというニーズに応えてきたのです」(同・記者)
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