追悼 梅宮辰夫さん、今年3月「週刊新潮」独占手記で綴った芸能界への遺言

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ガンと闘って半世紀

 2017年6月、脳リンパ腫で死去した松方弘樹さん(1942~2017)を偲ぶ会が都内で営まれ、挨拶で梅宮辰夫さん(81)は「お前の方が先に逝っちまったな。寂しい」と語りかけた。

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 その梅宮さんが今日、12月12日午前7時40分──神奈川県内の病院で慢性じん不全のため亡くなった。

「仁義なき戦い」に「不良番長」、「前略おふくろ様」と当たり役は数知れず。日本映画黄金期にスター俳優として名を馳せた梅宮さんは、しかし、人知れず「がん」と戦い続けてきた。そのことはあまり知られていなかった。

 梅宮さんは81歳の誕生日を迎えた今年3月、週刊新潮の求めに応じて独占手記を寄せた。3月14日号に掲載された「独占手記 6度目の『がん闘病』『人工透析』を初告白『梅宮辰夫』芸能界への遺言」がそれである。

 デイリー新潮でも速報で報じ、独占手記を元にした記事を掲載してきたが、改めて梅宮さんの“遺言”をお伝えするため、3月14日号に掲載された手記の全文を一挙掲載する。昭和という時代にこだわる「生涯俳優」の闘病記録と、ショー・ビジネス界への最後の苦言──どうか刮目してお読みいただきたい。

 正直なところ、自分の「がん」について語るのは気が進まなかったんです。芸能人はイメージ商売だから、ひとたび「病気」が知れ渡ると俳優生命を脅かしかねません。溌剌とした役柄は演じづらくなるし、ロケの途中で倒れることを撮影スタッフに心配されて、キャスティングの段階で外されてしまうかもしれない。

 ただ、ここに来て僕自身の考え方が少し変わってきました。

 これまで公表を控えてきたけど、実は、この半年余りの間に、僕は2度のがんを経験したんですね。

 具体的に言うと昨年9月に「前立腺がん」、そして、今年1月に「尿管がん」の手術を受けています。このふたつを含め、僕はこれまでの人生で6度のがんに見舞われたことになる。

 当然ながら、がんとの戦いは生易しいものではありません。僕自身、何度目であっても「がん」と宣告されればショックを受けますよ。でも、その度に現実と向き合って、主治医や家族とじっくり話し合いながら治療方法を選び、どうにか病を乗り越えてきました。お陰様でこの3月11日には81歳の誕生日を迎えることができそうです。

 人生で6度ものがんに打ち克って、この年齢まで生きてこられたのだから、これ以上、隠し立てすることもないだろう、と。むしろ、僕が闘病について洗いざらい話すことで、まさにいまがんに直面して悩み、傷つき、希望を失いかけている人やその家族にエールを送りたいと思うようになったわけです。

 はじめに僕の「がん歴」を大まかに説明すると、まず30代半ばだった1974年に「睾丸がん」に罹り、それが左の肺に転移して「肺がん」と診断された。その後、30年ほどの期間を置いて、いまから7~8年前に見つかったのが初期の「胃がん」。2016年には「十二指腸乳頭部がん」で11時間に及ぶ大手術に臨みました。その後、今回の「前立腺がん」と「尿管がん」に至ります。こうして振り返ってみると、我ながらよく天に召されずに済んだものだと思いますよ。

「夜の帝王」と呼ばれた僕が…

 それでは、今日まで一切伏せてきた、5度目と6度目のがんのことから話を始めさせてもらいます。

 30年以上前から、僕は血液や心電図、レントゲンの検査を2カ月に1度、継続的に受けてきました。

 そうしたなか、昨年の夏に医師から、

「前立腺の異常を示すPSAというマーカーが高い数値をつけています」

 と言われたんです。

 同じ頃、おしっこに血が少し混じり始めた。詳細に調べてもらうと「前立腺が肥大している」という。結果、がんの疑いが強まって、昨年9月20日に手術することになったんです。前立腺がんと聞いて、おや、と思う読者もいるかもしれないのでハッキリ言いますよ。

 僕はもう勃ちません。

 でも、まぁ、それは大したことじゃない。若い頃は「夜の帝王」と呼ばれ、主演した「夜遊びの帝王」では「シンボルロック」なんて主題歌を歌ったけど、僕も傘寿を超えてるんだから。

 ちなみに、前立腺がんの手術について説明してくれたのは女医さんで、ストレートに言われました。

「梅宮さん、手術をしたら勃たなくなりますよ」

 ってね。その時は娘のアンナが付き添ってくれていたんだけど、僕の意見など聞かないうちに、

「パパはもういいわよね」

 と言うんだから参ったよ。とはいえ、何事も命には代えられません。

「絶対に生きるべきです」

 実際の手術は、手術支援ロボット「ダ・ヴィンチ」を使ったもので、幸い成功に終わっています。ところが、術後の経過観察のために、定期的な検査を続けていたところ、担当の医師に思いもよらないことを言われたんだ。

「尿から悪性細胞が見つかりました。尿管がんの疑いがあります」

 前立腺がんの手術から日が浅かったこともあり、面喰ったのは事実です。

 ただ、主治医によれば、

「尿管はとても薄い臓器なのでがんが進行すると転移しやすい。しかし、今回はがんが固まりになる前の細胞レベルで見つけられました。その意味ではかなりの早期発見です。手術後の経過観察をきちんとしていたことが功を奏したのだと思います」

 つまり、前立腺がんに罹っていなければ、尿管がんが手遅れになっていたかもしれない。まさか「がん」によって、別の「がん」から救われるとは思いもよらなかったね。

 そうこうするうちに、尿管がんの手術が現実味を帯びてきたんですが、ここで別の問題が浮上した。この手術では、尿管と一緒に腎臓も摘出する。僕は左側の腎臓を失うことになるんだけど、右側は、左側と比べて小さく、ひ弱なんだ。そのせいもあって手術後は人工透析が必要になる、と。

 僕は主治医に常々、「人工透析をするくらいなら手術は受けない」と言い続けてきました。人工透析が必要になると、連日公演が続く舞台の仕事は受けられない。海外に釣りに行くことも難しい。果たして、そこまでして生き延びることに意味があるのか――。改めて人工透析という現実を突きつけられて、「うーん……」と悩み込んでしまった。

 そんな時、付き合いの長い男性の主治医が僕の気持ちに寄り添ってくれてね。根気強く説得されました。人工透析を受けなければ尿毒素が溜まって1週間でこの世とオサラバだ、ということも理解できた。主治医からはこうも言われました。

「梅宮さんは絶対に生きるべきです」

 それで、家族や友人、同じ病気を抱えている患者さんのことに思いを巡らせて、これはもう覚悟を決めるしかないな、と。そして、手術に踏み切ったんです。

 散々悩んだ末に決断した手術は、1月24日に無事終わりました。2月末に退院したものの、本当に大変なのはこれから。何しろ、1日おきに4時間の人工透析を受けることになる。人工透析を30年、40年と続けている患者さんには本当に頭が下がる思いですよ。80歳まで人工透析をせずに生きてこられたことを、僕はありがたく思わなければならない。

 同時にこうも思った。

 若い頃にがんを患ったことにも感謝すべきかもしれないな、と。

30代半ばで最初のガン

 80歳を過ぎてから初めてがんを宣告された患者さんは、精神的にかなり落ち込むと思います。たとえ体力に自信があっても、がんと戦うための気力を保つのは至難の業です。

 その点、僕は半世紀近くも前にがんで苦しみ抜いた経験がある。30代半ばで初めてがんに罹ったことは自分の人生を見直す転機にもなりました。

 発端は74年の夏。

 前触れもなく片方の睾丸が腫れ始めたんです。当時、東京・戸越銀座で開業医をしていた親父に相談すると「ただの炎症だから、じきに治るよ」と取り合ってくれなかった。けれど、そのうちにピンポン玉くらいまで腫れ上がって……。親父の飲み仲間の町医者に頼んで切除してもらったんです。

 ところが、摘出した睾丸の状態が異様だというので、親父が総合病院に持ち込んで検査してもらったら、「がんが進行してます」。その上、レントゲン写真を撮ると左の肺に白く丸い影が写っていた。両親は担当医から、

「若いので進行が速く、肺に転移するとかなり厳しい。ひょっとしたら2カ月もたない可能性もある」

 と言われたそうです。

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