「日本初のフェミニスト」平塚らいてうを覚醒させた“20歳の初体験”
平塚らいてうといえば、教科書にも載っている、明治から昭和にかけて活躍した女性解放運動家の草分けである。
女性による女性のための文芸誌「青鞜」を創刊し、その巻頭に寄せた「元始、女性は太陽であった」は、今なお日本フェミニズム史に燦然と輝く名文として知られている。
ところで、そのらいてうが、女学生時代から坐禅に勤しみ、20歳の若さで「悟り」を開いた仏教者だったことはご存じだろうか。
長年にわたり「悟り体験記」を収集し、その分析を進めてきた仏典翻訳家の大竹晋さんの新刊『「悟り体験」を読む』(新潮選書)から、らいてうの強烈な覚醒体験のさわりを紹介しよう。
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平塚らいてうは、1886(明治19)年に、高級官吏の家に生まれた。日本女子大学校に入学後、今北洪川『禅海一瀾』を読んだことをきっかけに、熱心に坐禅に取り組むようになる。すると彼女の身体に変化が表れ始めたという。
「まずからだの調子が変ってきたのに気付きました。頭痛を忘れ、長く悩んだ鼻の通りもよく、声も出し易くなりました。からだが不思議に軽くなり、日に何里と歩くのに少しも疲れを感じません。夢というものをほとんど見なくなったこと、睡眠時間が僅かで足りることなども知りました。雑念がだんだんにへって、心がよほど透明になってきたからでしょう、視野が広くなり、ものの隅々が見えるようになり、いつも心たのしいのでした」
そして、20歳のある夏の日に、彼女はついに初めての悟り体験を得る。
「私はその日、あまりのうれしさに、とてもそのまま真直ぐに家へ帰ることなどできず、田んぼ道をどこまでも、どこまでも歩いて日暮里から三河島の田んぼを、それから小台(おだい)の渡しをわたって、西新井の方へ、帰りには豊島の渡船の方へ出て、飛鳥山に登るなど、どの道をどう通ったか日の暮れるまで歩きまわりました。足の疲れはもちろん、自分のからだのあることさえ忘れて天地の中にとけて歩いていました。「心身脱落」という言葉が禅書にありますが、ほんとうにその通りです。無我とは決して形容詞ではありません」
このときの体験を、らいてうはのちに改めて次のように語っている。
「ついに百八十度の心的革命というか、一大転回を遂げたのでした。これはわたくしにとっては、まさしく第二の誕生でした。わたくしは生まれかわったのでした。(…)求め、求めていた真の人生の大道の入口が開かれたのです。(…)神とは何か、自我とは何か、神と人間との関係、個と全体との関係などと、女子大時代に頭の中だけの、概念の世界で模索していた諸問題が、みんないっしょに解決され、がらんとした思いで、愉快というよりほかありません」
ところが、あまりに強烈な覚醒体験だったせいか、彼女は精神的にやや突飛な状態に陥ってしまい、青年僧に「いたずらキス」をして求婚されたり、妻子ある小説家と心中未遂事件を起こしたりしてしまう。
しかし、悟り体験によって彼女が並みならぬ精力を得たのは間違いないようで、その後1971(昭和46)年に85歳で亡くなるまで、らいてうは女性運動や反戦運動の最前線で活躍を続けたのである。