吉永小百合と在日朝鮮人の帰還事業 拉致問題とも無縁ではない「キューポラのある街」

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 1959年12月14日、在日朝鮮人とその家族を乗せた船が新潟港から北朝鮮へ向けて出港した。北朝鮮による「帰還事業」の第1次帰国船である。実は、この帰還事業と吉永小百合の主演映画『キューポラのある街』は、深い関わりがあるという。12月14日と15日、帰還事業60周年を記念して、拓殖大学文京キャンパスで「北朝鮮人権映画祭」が開催される。その場でこの映画も上映されるのだ。

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 1959年12月から84年7月まで続いた帰還事業で、総計9万3340人が北朝鮮に渡った。そのうち、在日朝鮮人の妻、夫、子供として“帰国”した日本人は6839人にのぼるという。

「日本人妻(夫)は約1800人と言われ、その後、一時帰国できたのは数人だけです。後は北朝鮮で亡くなって、現在も生き残っているのは数人だけだと思います。帰還事業が始まった当初、“地上の楽園”と言われた北朝鮮は、実際は国土が朝鮮戦争で破壊され、極度の物不足という過酷な環境でした。帰国者はみな騙されたのです」

 と語るのは、特定失踪者問題調査会代表の荒木和博氏である。

「帰還事業」が始まって2年後の1961年12月に『キューポラのある街』の撮影が開始され、62年に公開された。監督は浦山桐郎。脚本は今村昌平と浦山桐郎。吉永小百合はこの映画でブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、60年代を代表する人気女優となった。

 映画の舞台は、鋳物工場のキューポラ(鉄の溶解炉)が立ち並ぶ埼玉県川口市。吉永小百合が演じる中学3年の石黒ジュンは、鋳物職人の長女という設定だった。父・辰五郎(東野英治郎)が工場を解雇されたため、家計は火の車となり、ジュンは在日朝鮮人の友達、ヨシエと一緒にパチンコ屋でアルバイトを始める。ジュンの弟タカユキも、ヨシエの弟サンキチと仲が良く、いつもつるんで遊んでいる。朝鮮人一家との交流を描いたこの映画は、北朝鮮への帰還事業を肯定的に描いた。

 映画では、タカユキとサンキチがこんな会話を交わしている。

「朝鮮人は朝鮮で暮らしたほうがいいだろ。どうせ貧乏なんだから」(サンキチ)

「そりゃそうだな。今より貧乏になりようがねえもんな。ハハハハハ」(タカユキ)

「脚本の今村昌平氏は後に、『とんでもないものを作ってしまった。北朝鮮を礼賛する映画を作ってしまった』と自己批判しています」

 とは、先の荒木氏。

「昨年の12月、日大藝術学部が『朝鮮半島と私たち』というテーマの映画祭を開催し、『キューポラのある街』を上映しました。その際、吉永小百合さんがメッセージを送っています。川口駅で北朝鮮に帰国する人たちを見送るとき、在日朝鮮人が動員されました。見送りの場面では、みな、お祝いするようにバンザーイ、バンザーイと叫んでいました」

 吉永小百合は手書きで、メッセージをこう綴っている。

〈映画学科の皆さまが、毎回しっかりしたテーマを見つけ、映画祭を開催して勉強する姿勢に、感心しています。『キューポラのある街』は、1962年の作品です。真冬の川口駅前で、深夜に大勢の人々が朝鮮の歌をうたい、私達の映画を盛り上げてくれました。そして彼らは、帰還船に乗り、故郷に帰って行きました。今、私達は、朝鮮半島の歴史、文化、現在の暮らしをしっかりと見つめ、語り合いましょう。吉永小百合〉

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