中村哲さんを悼む 宝塚・アフガニスタン友好協会代表が語る「犯人像」と「先生の思い出」
宝塚・アフガニスタン友好協会(兵庫県宝塚市)の西垣敬子代表(84)は、1994年に初めてアフガニスタンを訪れて以降、毎年のように同国を訪れ、大学女子寮の建設など、女性や孤児の支援活動を続けてきた人物だ。先日、凶弾に倒れた医師の中村哲氏(享年73)との親交もあった西垣氏に、話を伺った。(粟野仁雄/ジャーナリスト)
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12月5日、自宅で最初にニュースを見たときは「命だけは助かったと安堵していたのに、すぐに悲報に変わってしまった。強盗などではなく、明らかに命を狙われていたようです。ジャララバードの知り合いの大学教員に連絡を取ると、「襲ったのは外国勢力のようだ」とのことでした。
真相はわかりませんが、原因は中村先生が半生をかけて乾いた大地に供給してきた「水」でしょう。先生のペシャワール会が水を引く源流のクナール川は、大きな川ではありません。造った用水路で水が来なくなったという不満のようです。国内や隣国パキスタンの不満は先生も感じていたのでしょうけど、命に危険が迫っていたことまで肌で感じられなかったのでしょうか。ペシャワール会は、「農村の水の配分については関知しない」というのが基本方針でした。どうして中村先生が恨まれるようなことになったのか。
あの国は極端に雨が少なく、山岳地帯の雪解け水が流れている程度です。以前は土漠だった地域は、用水路を引いたことで緑があふれる穀倉地帯になっています。もし犯人がアフガニスタン人なら絶対に許せない。大好きなアフガニスタン人に不信感を持ってしまいそうです。
私も中村さんも、1990年代のタリバーン支配時代(1996~2001年)以前からアフガニスタンに入り、同じジャララバードを拠点にしていました。日本人で入っていたのは私たちだけでした。当時のタリバーン政府を認めていたのはパキスタン、サウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)の3カ国だけ。アフガンのビザもパキスタンまで行って取得しなくてはなりませんでした。成田空港からしか行けないので中村先生とは空港でいつもお会いしましたが、正直言うと気安く「先生」なんて声をかけられるような方ではありませんでした。決して偉そうにしているとかではないのですが、まじめで厳格そうで、ちょっと私から見ると畏れ多い人物の印象だったのですね。
当時、ジャララバードにいたタリバーンの男たちは乱暴ではありませんでした。私が「なぜ女性を家に閉じ込めておくのか」と訊いたら、丁寧に「今は治安が悪いから」と説明していました。中村先生も親近感を持っていたと思います。2008年にペシャワール会の伊藤和也さん(当時31)が殺された時も、先生は「犯人はタリバーンではない」と強調していました。その後、タリバーンは性格が変わってしまい、女性を抑圧したり、貴重なバーミヤンの巨大仏像を破壊したりしていましたが。
中村先生は大きな組織を動かし、私は個人行動でしたから、そんなに接点はありません。私が大学に女子トイレを作り、完成記念のささやかなパーティを開きお呼びしました。ご本人は来られませんでしたけど、ペシャワール会の若い日本人スタッフ3人がいらっしゃってくださいました。大学に女子トイレがなかったのも驚きですが、喜ぶ大勢の女性陣に、ペシャワール会の男性たちは圧倒されていましたね。
中村先生は仕事を進める上で、無関係で無用な付き合いはしないタイプだと思います。ある意味、「孤高の人」だったかもしれません。そんなハードな性格だからこそ、あれだけ大きな仕事ができたのでしょう。それでも2度ほど、ジャララバードのスタッフルームで食事に招かれたことがあります。私が、ペシャワール会の若者が「井戸を掘る話ばかりでつまらない」と日本にいる彼女に振られたという逸話を紹介すると、面白がって「うふふ」と笑っておられましたね。あまり笑うところを見たことがないので印象に残っていますね。
中村先生は、いつでも地球のどこかにいてくれて、アフガニスタンの人のために働いてくださっている、それが当たり前だという安心感がありました。その安心感が音を立てて崩れ去りました。
11年前の伊藤和也さんの場合は、いきなり撃たれたのではなく誘拐されたため、武器を取って伊藤さんを救出しようとした村人たちと応戦になって巻き添えになったようです。若い伊藤さんがアフガニスタン人に感謝され、頼られ、尊敬する中村先生とともに異国の地で生きがいを見出していたのだと思うと残念でならなかった。中村先生の受けた衝撃は計り知れないものがあったと思います。
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