中曽根康弘元首相を偲ぶ レーガン大統領から協力要請された”米国人質救出作戦”

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機密指定解除「NAKASONE」ファイル(3)

 11月29日に亡くなった中曽根康弘元首相の秘話を、ジャーナリストの徳本栄一郎氏が公文書から明らかにする。84年3月以降、レバノンで計7名の米国人が誘拐された。犯人は、イランが影響力を持つイスラム教武装組織。困り果てたレーガン大統領は85年7月、夏休みで軽井沢に滞在中の中曽根氏に一本の電話をかけた。人質救出に協力してもらえないか、と(週刊新潮18年2月1日号より再掲載)。

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 中曽根康弘は今年の春に満100歳を迎える。海軍士官として敗戦を体験して政界入りし、復興から高度経済成長、そしてバブル景気とその崩壊に立ち合った彼は戦後史の目撃者と言っていい。その哲学を回顧録で次のように語っている。

「私のモットーは、結縁・尊縁・随縁の三縁主義でね、つまり、縁を結び、縁を尊び、縁に随う。縁は神様が与えてくれたものだから、向こうが破らない限り、こちらから縁は切らない、結ばれた縁は尊重するという意味があります」(『中曽根康弘が語る戦後日本外交』新潮社)

 総理在任中に生まれたロナルド・レーガン大統領との「ロン・ヤス」関係も、その縁の一つだったが、それを米国政府が自らの国益のため最大限利用したのは第3、4回で述べた通りだ。だがレーガンが中曽根本人に対して抱いた信頼と友情は本物だった。そして、それが中曽根を米国のある外交工作に巻き込んでいった。中東でイスラム教武装組織に拉致された米国人人質を救出するCIA(中央情報局)の極秘工作である。

 政権発足から3年目、欧州歴訪から戻ったばかりの1985年7月27日から中曽根は夏休みで軽井沢に滞在していた。ホテル鹿島ノ森に宿泊して友人とゴルフを楽しんだが、そこへレーガンから電話が入ったという。

「レーガンから軽井沢に突然電話がかかって来てね。レバノンのベッカー高原に捕らえられているアメリカ人の人質救出に協力してもらえないだろうかと相談してきました」「休暇中に、直接軽井沢まで電話をかけてきて、アメリカ人の人質を何とかしてくれというのは、お互いが親しくなければできない事です。レーガンは、日米の親密な関係を頼りにしている。だから私は、『これは本気で助けてやらんといかんな』と思いました」(前掲書)

 そしてこの後、中曽根はレバノンと関係が近いシリアとイランに、元駐フランス大使で中東調査会の中山賀博(よしひろ)理事長を派遣して交渉させたという。これについては外務省が2017年12月に公開した80年代の外交文書でも言及しているが、これだと何の前触れもなくレーガンが突然電話をかけてきたように映る。だが米国側の文書や関係者の証言によると話はそう単純ではなかった。

人質はCIA

 同年7月27日、ホワイトハウスのNSC(国家安全保障会議)である一通の文書が作成された。タイトルは「大統領から中曽根への電話・ベイルートの米国人人質に関して」、オリバー・ノース軍政部次長からロバート・マクファーレン国家安全保障担当補佐官に宛てたメモだった。

 この日は週末の土曜日だが、夜の8時にレーガン大統領から日本の中曽根総理に電話を入れる、その30分前にホワイトハウスのシチュエーション・ルーム(危機管理室)に国務省の通訳を待機させるとの内容だった。これはCIAのウィリアム・ケーシー長官とクレア・ジョージ工作担当副長官の助言に基づき、両者の同意も得ているとある。

 遠い中東でのイスラム教武装組織による人質事件、それになぜ日本の総理が関わってくるのか。話はその16カ月前に溯った。

 84年3月16日、レバノンの首都ベイルートでウィリアム・バックレーという米国の外交官が武装勢力に拉致された。バックレーは現地の米大使館で政治問題を担当していたが、これを知った米バージニア州ラングレーのCIA本部は大きな衝撃を受けた。政治担当官というのはあくまで表の姿で、じつは彼はCIAのベイルート支局長だったのだ。

 歴史的にレバノンはキリスト教やイスラム教の様々な宗派が入り混じり、特に第2次大戦以降は紛争が絶えなかった。80年代初めには米海兵隊基地への自爆テロで数百人の隊員が死亡し、米国人の誘拐も相次いだ。もしバックレーが拷問を受けて情報源を白状すれば、CIAがこれまで中東で築いた情報網がズタズタになってしまう。

 当然、米国はあらゆる外交ルートで救出を図ったが、その後もベイルートではキリスト教団体の神父やAP通信社の支局長など誘拐が相次ぎ、85年夏までに人質は7名に達していた。マスコミは連日報道を繰り返し、家族も政府に解放への努力を要請したが、肝心の人質の安否さえ分からずレーガン政権は頭を抱えてしまったのだった。

 丁度この頃、都内の東京医科歯科大学の附属病院にある米国人男性が入院していた。年の頃は70、ニューヨークで石油会社を経営する人物で肝臓癌の治療を受けるために来日していた。彼の名前はジョン・シャヒーン、ある年齢以上の人ならこの名に聞き覚えがあるかもしれない。かつて総合商社の一角を占めた安宅(あたか)産業(現在の伊藤忠商事)を破綻に追い込んだとされる男で、このシャヒーンこそ、レーガンから中曽根への電話の仕掛け人だった。

 70年代初めにシャヒーンはカナダのニューファンドランド島で石油製油所の建設を進めていた。中東の安い原油をガソリンやジェット燃料に精製して米東海岸の大市場に売り込む構想で、その原油調達に代理店として参加したのが安宅産業だった。ところが操業開始の直前に第4次中東戦争が勃発して原油価格が暴騰、また製油所の欠陥工事で一部の製品が出荷できず、安宅への債務は雪だるま式に膨れ上がってしまう。結局、製油所は破産を申請し、巨額の焦げ付きを抱えた安宅は伊藤忠との合併に追い込まれたのだった。

 その発端であるシャヒーンは安宅を潰した張本人とされ、小説やテレビドラマのモデルにもなった。それから約10年後に癌を患った彼は東京医科歯科大学の病院で治療を受けたが、その友人の一人が作家の落合信彦だった。落合の著書によると、大統領からの電話は、見舞いに訪れたシャヒーンの病室でのこんな会話から生まれたという。

「『私としては幼なじみのダッチ(引用者注・レーガンの意味)がこんな苦境に立たされているのは見るに耐えられない。なんとかして彼を助けてやりたいのだ』話はわかった。しかし、協力といっても私の出る幕など考えられない。それを彼に言うと、『あんたにはパイプ役をやって欲しいんだ』『パイプ役?』『そう。ナカソネとのね。いいかね。私の見るところアメリカ側がこの問題で失敗してきたのは政治的な手法で解決しようとしているからなんだ。経済的なテコを使っていない。もちろん今のアメリカじゃ使えないがね。だが使える国が一国だけある。日本だ』」(『挑戦者たち』集英社)

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