中曽根康弘元首相を偲ぶ レーガン大統領が署名した「最高機密文書」で読み解く日米関係
機密指定解除「NAKASONE」ファイル(2)
11月29日に亡くなった中曽根康弘氏が、自民党総裁選で勝利したのは82年11月25日のことだった。実はその1カ月前、レーガン大統領は対日戦略を決定する重要文書に署名していた。「ロン・ヤス」関係が、まさに米国の用意周到なシナリオの産物であることを証明する、最高機密の中身とは――。ジャーナリストの徳本栄一郎氏が迫った(週刊新潮18年1月25日号より再掲載)。
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まだ東西冷戦が続いていた1980年代、日米をかつてない強い絆で結んだのがロナルド・レーガン大統領と中曽根康弘総理の「ロン・ヤス」関係であった。両国の首脳が互いにファーストネームで呼び合うのは歴史上初めてとされ、わが国の存在感を世界に知らしめた。
そのきっかけになったのが83年1月19日、中曽根が訪米した際のレーガンとの朝食会だったという。
今のドナルド・トランプ大統領と安倍晋三総理の「ドナルド・シンゾー」関係を彷彿とさせるが、そもそも超大国の指導者がいくら気に入ったとはいえ、こうも簡単に胸襟を開くものか。じつはその裏には米国の国益を第一に考えた綿密な戦略とシナリオがあったのでは。こう考えた私は30年余りを経て機密解除されたレーガン政権の公文書を調べてみた。そして、その中に“中曽根ファイル”とも言うべき大量の対日政策文書が含まれる事が分かってきた。
予想した通り、「ロン・ヤス」関係はレーガンの咄嗟の思いつきなどではなかった。その陰の演出者たちの動きは中曽根政権誕生の直前から始まっていたのだ。
82年10月12日、当時の鈴木善幸総理が突如、退陣を表明した。自民党の総務会長を長く務めた鈴木は調整型の政治家として知られたが、外交は不得手でもあった。前年の日米首脳会談後には日米同盟に軍事的意味合いはないと発言し、外務大臣が引責辞任する事態にまで発展している。
後継者に熱い視線が注がれる中で手を挙げたのは鈴木内閣の中曽根行政管理庁長官、河本敏夫経済企画庁長官、安倍晋太郎通商産業相、そして中川一郎科学技術庁長官の4人だった。党員、党友による予備選挙の実施は11月24日と決まり、各候補の派閥は猛烈な支持獲得合戦を続けていた。
「総理に選ばれるコンセンサスはできている」
その最中の11月18日、ホワイトハウスのNSC(国家安全保障会議)でアジア担当部長を務めるガストン・シグールが来日し、中曽根と昼食を共にした。NSCは大統領直属の機関で安全保障政策の立案や情報収集を行い、国務省や国防総省、CIA(中央情報局)などとの調整を担う。そのシグールは大学時代に日本史の博士号を取得し、長年アジア財団の幹部を務めて極東地域を熟知する専門家だった。彼は食事を取りながらポスト鈴木の動きを探ったが、翌日、駐日米国大使館からワシントンに送られた報告が手元にある。
「中曽根によると、日本では来週彼が自民党総裁と次期総理に選ばれるコンセンサスができているという」
「予備選では『皆、私が勝つと言ってくれている』とし、25日の自民党総裁選と26日の国会での首班指名選挙で十分な票を獲得できる事を認めた。その自信を誇示するかのように中曽根は総理就任前だがすでに自民党と内閣の重要人事を決めていた。派閥間のバランスに配慮するのは難しいと言いつつ、その過程を楽しんでもいた」
当時、自民党で中曽根派は弱小勢力に過ぎず、総裁選に勝つには他派閥、それも最大の数を誇る田中角栄元総理の田中派の協力が不可欠だった。このため鈴木退陣後にすぐ田中の支持を取りつけたのだが、それは中曽根を「風見鶏」と嫌う議員たちの反発も呼んだ。
その筆頭が田中派幹部の金丸信で、田中元総理の秘書だった早坂茂三は著書でこう振り返っている。
「『オヤジの意向は中曾根らしい』と聞き、反対派を代表して金丸信がボスに直談判(じかだんぱん)した。『あれは寝首(ねくび)を掻(か)く男ですよ。信用できない』、『ほかにいないじゃないか。心配するな。中曾根はボロみこしだ。悪さをしたら放り出せばいい』。この後、金丸が私に笑って、こぼした。『オヤジが白だと言えば、黒でも白だもなあ。これが派閥だ』」(『オヤジの知恵』集英社インターナショナル)
その中曽根も党内の自分の基盤が脆いのを十分承知していたようだ。総理の生殺与奪の権を握る田中派に対抗するには外部からの、それも強力な支援が必要であった。シグールの昼食会の報告を続ける。
「中曽根は政権発足後、できるだけ早くワシントンを訪れてレーガン大統領と個人的関係を築きたいとし、(来年の)1月10日から20日の間を希望した。また貿易と防衛問題が日米関係を阻害している事も認識しているという」
「レーガン大統領から祝意の電話を入れさせようかと伝えると、中曽根はその心遣いに心から感謝の意を表し、首班指名を待たずに自民党総裁選後でも結構だと語った。その際は単なる祝辞で終わらせず日米関係で本質的な議論をしたい意向だ」
「中曽根は防衛分野で日米は共同歩調を取るべきだとし、『日本も相応の負担を担うべきだ』と語った」
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