中曽根康弘元首相を偲ぶ 大韓航空機撃墜事件でソ連を追い詰めた「ジャパニーズ・テープ」
共産主義崩壊の予兆
だが、これについてはソ連の方が一枚上手だったようだ。ソ連崩壊後、ロシア政府は事件に関する資料をICAO(国際民間航空機関)に提出したが、それによるとすでに彼らは10月中旬ブラックボックスを回収していた。それを隠蔽しただけでなく、何と捜索を続けるふりをして米軍を翻弄していたのだ。
後日、ブラックボックスを解析したICAOは大韓航空機のパイロットがINS(慣性航法装置)の操作を誤って航路を逸れた可能性があるとの報告書をまとめたが、269名の乗員・乗客を乗せた機体はまさに東西冷戦の最前線に飛び込んでいったのだった。
中曽根は後に、「私は、大韓航空機撃墜事件がソ連の共産主義崩壊の予兆となる事件であったと見ています」(『中曽根康弘が語る戦後日本外交』新潮社)と語ったが、事件から1カ月余り経った10月7日、ホワイトハウスにUSIA(米文化情報局)から提出されたメモがある。東欧の小国ブルガリアに駐在する米大使からの報告に関する内容だった。
USIAとは教育や文化などの交流促進を図る米政府機関で、それによるとブルガリアの週刊誌が大韓航空機事件を報じた際、米国の海外向けラジオ放送ボイス・オブ・アメリカに言及したという。共産圏のマスコミが宿敵の国営放送の報道を紹介する、ごく些細なエピソードかもしれないが、これは即ちブルガリアの市民がソ連の公式発表を信じていない事を意味した。
東欧諸国の人心はすでにソ連から離れ始めており、それはマグマのように地下深くに溜まって胎動を産み、やがてベルリンの壁崩壊、ソ連解体へ繋がっていく。あの事件が「共産主義崩壊の予兆」とする中曽根の言葉はまさしく正鵠を射ていたと言えた。
東京でのある昼食会
その引き金となった日本からの音声テープは今、カリフォルニア州のレーガン大統領図書館の書庫に眠っている。もう30年以上が経つのに機密指定を解かれず、記録には「大韓航空機撃墜 オーディオ・カセット・テープ2本」、「作成日時1983年8月31日」(注・事件発生時の米国の日時)とあるだけだ。職員に聞いても、それ以上は答えられないとの回答であった。
東西冷戦の終結に貢献したのは日米首脳が互いにファーストネームで呼び合う「ロン・ヤス」関係だったが、ここで素朴な疑問も湧き起こる。冒頭で紹介したレーガンの親密ぶりは本当に初対面の中曽根に惚れ込んだせいなのか。仮にも超大国の指導者がそれほど感情の赴くままに動くものか。
機密解除された米側の記録を読むとやはり実態はかなり違った。その裏には、日本国内での中曽根の脆弱な政治基盤、本人の性格、これらを米国の国益のため最大限利用する綿密なシナリオを描いた人間がいた。ハリウッドの俳優出身のレーガンはそれを完璧に演じきったに過ぎない。
「ロン・ヤス」関係の陰の演出者とも言うべき男たち、その活動は中曽根政権が誕生する直前、1982年11月の東京でのある昼食会から始まっていた。(敬称略)
(2)へつづく
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