史上4人目アマ優勝「金谷拓実」秘密は「不動心」と「コーチ」 風の向こう側(59)
「三井住友VISA太平洋マスターズ」(11月14~17日)を制し、日本の男子ツアー史上4人目のアマチュア優勝を果たした金谷拓実(21)への注目と期待が高まっている。
ジュニア時代から数々のタイトルを獲得し、ゴルフの強豪として知られる東北福祉大学へ進学。そして2018年に「アジアパシフィックアマチュアゴルフ選手権」を制し、優勝資格によって今年の「マスターズ」(58位タイ)と「全英オープン」(予選落ち)に初出場した金谷の歩みは、まさに大学の先輩・松山英樹(27)とそっくりの道を辿っている。
しかし、大学入学に至るまでの道程、つまり幼少時代、ジュニア時代のゴルフとの向き合い方や、その時期に醸成された金谷の思考や人間性には、当然ながら、金谷ならではのものがあるはずで、金谷の強さの秘密は、そのあたりに隠されているのではないか。
金谷を小学2年生から高校卒業まで指導してきたジュニア時代のコーチ、岸副哲也氏に話を聞いた。
自己修正能力
岸副コーチには、金谷が2017年の国内メジャー「日本オープンゴルフ選手権」で優勝こそ逃がしたものの、池田勇太(33)と堂々と渡り合った直後にも取材させてもらい、この場で紹介させていただいた(『米ゴルフ界注目アマ「金谷拓実」が実践する「リスクマネジメント術」』2017年12月8日)。
ティーチングプロの岸副氏は東京・世田谷の会員制ゴルフサロン「尾山台ゴルフ倶楽部」に本拠を置く傍ら、広島や静岡などでプライベートレッスンも行っている。
金谷と出会ったのは広島の練習場。5歳からゴルフクラブを握った金谷は、後に数々の勝利を収めるのだが、岸副コーチが出会ったころは、まだタイトルどころか、十分な筋力も飛距離もない7歳の男の子だった。
「当時、(広島の)練習場には10名ぐらいのジュニアゴルファーが来ていましたが、拓実くんは自分の世界に入り込む面白い子供でした」
金谷少年は、不調に陥ると、調子を取り戻すための方法を自分で考え、模索していたという。
「彼は普通のジュニア用のクラブを持っていましたが、調子が悪くなると、グリップ部分にガムテープをぐるぐる巻きにして補強したプラスチックのクラブを取り出し、それで素振りをしたり、本物のゴルフボールを打ったり。軽いクラブを振ることで“振り抜き”の感覚を取り戻そうとしていた。
そのクラブで本物のボールを打つと、ポコーンと面白い音が練習場に響き渡っていました。大半の子供が教わったことをやるだけで、おかしくなったら修正してもらうだけという感じだった中、拓実くんは違った」
そんな金谷少年の思考や性格を生かすことを最優先に考えた岸副コーチは、以後、二人三脚で「自分で修正できるゴルフ」に取り組んでいったそうだ。
「ラウンド中でも起こりうる大小の調子の波を、どうやって自力で修正するか。自己修正能力を伸ばすことで、彼は粘り強いゴルフを身に付けました」
「僕は食べてます」
金谷の主だった成績を振り返ってみると、「JGA」(日本ゴルフ協会)のホームページで最初に記されているのは、2010年の「中国小学生ゴルフ大会」優勝だ。2010年と言えば、金谷は小学6年生だった。つまり、それ以前の金谷は、まだ主だった大会では未勝利だったということになる。
岸副コーチは、当時、金谷の様子を眺めるにつけ、多大なる可能性を感じ取っていたという。
「あれは確か2009年の『ロレックスジュニアゴルフチャンピオンシップ』のときのこと。拓実くんは小学5年生だったと記憶しています」
「JJGA」(日本ジュニアゴルフ協会)主催の同大会は小中高の男女、計6部門別の戦いで、全国各地で行われる予選を勝ち抜いたジュニアたちが全国大会という形の決勝に挑む仕組みだ。上位に食い込めば、「AJGA」(米国ジュニアゴルフ協会)などが主催する世界のジュニアの大会に日本代表として出場できる。
その2009年大会で金谷は年上の選手たちに混じって戦い、10位になった。いや、金谷にとっては「10位にしかなれなかった」と感じる悔しい結果だったそうだ。
「当時の拓実くんは、地方予選を勝ち抜いて全国大会に乗り込んだものの、華奢で小柄で、飛距離150ヤードにも満たない非力な選手でした。パーオンはまず無理。6年生たちと戦うには圧倒的に不利。しかし、アプローチでぴったり寄せて1パットでパーを取り、もしも叩いてしまったら、チャンスホールのパー3でスコアを取り返す。そういうゴルフで戦っていました。現在の拓実くんに見て取れる寄せと1パットに対する類まれなる執念は、あの小学生時代に培われたものでした」
だが、当時の彼の寄せワン・ゴルフでは優勝にはほど遠く、10位に甘んじた。
「それまでの拓実くんならロッカールームで悔し泣きをしていたのですが、あの日の彼は違いました。当時、国民的スターとして大人気だった石川遼プロがプレゼンターとして表彰パーティーに登場し、周囲は子どもも大人も『遼くん! 遼くん!』で大騒ぎになりました」
この年、18歳の石川は4勝をあげて世界最年少の賞金王に輝くなど、ジュニアゴルファーにとっても憧れの存在だった。
「ところが、他の子どもたちがみんな遼くんのそばへ行って騒いでいたのですが、拓実くんだけはビュッフェ形式の料理を黙々と食べていたんです。『遼くんのところに行かなくていいの?』と尋ねると、拓実くんは『僕は食べてます』と、きっぱり。『そうか。いつか拓実くんも遼くんと戦わなきゃいけないもんね』と言うと、彼は目の前の唐揚げをじっと見つめながら、黙って頷きました。そんな拓実くんを目の前にして、遼くん登場に少々舞い上がった自分が少し恥ずかしく感じられました。そして、まだ肉体は華奢だけど、すでにたくましい精神を備えていた拓実くんの後姿を写真に収めました。まあ、本人は知らないし、覚えてもいないと思いますけど」
折しも、今年5月の「中日クラウンズ」の予選ラウンドで、金谷は石川(28)、ジャンボ尾崎(72)、青木功(77)と同組になった。唐揚げを見つめながら悔しさを噛み締めたあの日から金谷は大きく成長し、10年後の今年、「憧れのスター」ではなく、同じ舞台で戦うゴルファーとして石川と握手を交わした。
そして、それから半年後、石川、松山に続く史上4人目のアマチュア優勝を果たした。
ミケルソンの話
岸副コーチいわく、
「拓実くんとは、悔しい思いを噛み締める時間を共有してきました。拓実くんは地方の大会や全国大会の予選会などではトップ通過など目覚ましい成績が多かったのですが、全国大会で優勝するまでには、2位止まりやプレーオフ負けといった惜敗が多かった。あと一歩という悔しい負け方をするたびに、私は彼にミケルソンの話をしました」
かつて「メジャー優勝なきグッドプレーヤー」「詰めが甘い」と揶揄されたフィル・ミケルソン(49)は、そんな辛い日々を乗り越えてメジャー5勝、通算44勝の強者になった。
「あのミケルソンだって、散々2位に甘んじ、悔しい時間を経てメジャーチャンプになったことを、私は拓実くんに話して聞かせました。ミケルソンはメンタル面を強化して強くなった。短いパットを外すたびにしかめっ面をして表情をこわばらせていたミケルソンは、そういう自身の表情の変化が不安のスイッチをオンにしていることに気付き、あるときから、ミスしても不安のスイッチを入れないよう、ニコニコ笑うようになった。
失敗しても目を見開いて笑顔を見せるミケルソンは不気味に見えることもあったけど、そうやってミケルソンは“万年2位”を脱却し、チャンピオンになったんだよと話したら、拓実くんは黙って聞き入っていました」
以後、金谷はミスしても、惜敗しても、「表情を出さないようになった。不動心のクールなスタイルで戦うようになった」と岸副コーチは振り返る。
中学生の間、全国大会は2位、3位、4位に終わったが、金谷は淡々とゴルフクラブを握り続け、戦いに挑み続けた。
「高校1年の春の大会(2015年「全国高等学校ゴルフ選手権」春季大会)でようやく全国優勝を遂げることができました。以後の彼の活躍は、みなさんもご存じの通り、目覚ましいものがあります」
2015年の「日本アマチュアゴルフ選手権協議」優勝。2016年「全国高等学校ゴルフ選手権」優勝、「全国高等学校ゴルフ選手権」春季大会優勝。
そして前述のとおり2018年にアジアパシフィックアマチュアで勝利を飾り、マスターズや全英オープンの舞台に上がり、ついに今年、日本ツアーの三井住友VISA太平洋マスターズでアマチュア優勝を飾った。
その礎は、金谷が岸副コーチと二人三脚で歩んできた小中高のジュニア時代に築かれた。だからこそ現在の金谷があること、彼が優れた指導者と早いうちに出会い、共に歩んだことは、とてもラッキーだったこと。
それをみなさんにお伝えしたくて、ここに記した。