大学入試の民間試験導入は日本人を「英語帝国主義」の最底辺にする! ネイティブ信仰の罠

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流暢さ≠知性の証

 残念ながら、流暢さやさりげなさを身につけるのに大きな意味を持つのは「育ち」なのだ。具体的にいえば幼少期の生育環境。努力をしておらず、潜在的な知的能力が高くなくても、一定の環境で育てば、英語なら英語圏内で幼少期を過ごせば流麗さだけは身につくことがある。これが現実だ。

 つまり、流暢さとは所詮、その程度のものなのだ。なぜ、そんなものを奉るのか。能力主義の社会においては、これはまったく非合理的なイデオロギーだといえよう。しかし、そのおかげで保たれるものもある。母語話者の優位だ。読み書きは第二言語話者が母語話者を凌駕する可能性がある。努力や知的能力の高さが大きな要因となるからだ。これに対し、話し言葉の流麗さは生まれがものをいう。だからこそ「話し言葉の流暢さ」は母語話者の優位を保つ最後の砦となるのだ。神戸女学院大学の内田樹名誉教授はブログで、〈伝統的な帝国主義の言語戦略〉として、次のように指摘している。

〈植民地人を便利に使役するためには宗主国の言語が理解できなくては困る。/けれども、宗主国民を知的に凌駕する人間が出てきてはもっと困る。/「文法を教えない。古典を読ませない」というのが、その要請が導く実践的結論である。/教えるのは、「会話」だけ、トピックは「現代の世俗のできごと」だけ〉

 要は、会話の流暢さに重きを置くことは、英語のネイティブ・スピーカーが非ネイティブ・スピーカーよりも自動的に上位にランク付けされることになる「英語帝国主義」を後押しすることにつながるのだ。

 大量の移民を労働力として受け入れなければやっていけない社会が、そのアイデンティティを保つのに死守しなければならないのが流麗さの神話に守られたネイティブ・スピーカー第一主義なのかもしれない。この「流麗さの壁」があればこそ、移民はスペックによって分類される受動的な労働力の地位に甘んじ、受け入れ側の優位を脅かすこともない。テスト業者や言語学習産業は陰に陽に「母語話者並の流麗さこそが最高のランクだ」という考えを流布しつづけることで、この壁を維持することになる。CEFRはそうした業者の大きな影響下で作成された。そして今、そのことが批判されてもいる。語学の習得のためには話すことの練習は当然必要だが、ひとたびそこに流暢さを絶対視する規格化がもちこまれたときにどんな結果に結びつくかは慎重に見極めねばならない。オーラル中心主義の信奉は、英語のネイティブ・スピーカーではない日本の若者たちを、端から英語帝国主義の最底辺に位置付けることになりはしないだろうか。

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