大学入試の民間試験導入は日本人を「英語帝国主義」の最底辺にする! ネイティブ信仰の罠
民間試験導入は日本の若者を「英語帝国主義」の最底辺に位置付ける――阿部公彦(2/2)
大学入試の「英語民間試験」は、導入延期ではなく中止を――東京大学文学部教授の阿部公彦氏がその歪みを指摘する。試験にあたって用いられるのは「CEFR」という、英語を含む言語の運用能力を測るための指標だった。阿部氏は、そもそもこの指標が、試験に使えるような安定的なものではないと指摘する(詳しくは前回を参照)。
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もう一つ、CEFRはもともとコミュニカティブ・アプローチという方法論を元にしている。そこにあるのはオーラル中心主義である。これが日本に古くからある「英語がぺらぺらになりたい」という安直な英会話信仰と結びつくとおかしな方向に進む。
たとえばCEFRの能力記述文を見てみると、スピーキングの上級レベルでは「やすやすと」(effortlessly)とか「流暢に」(fluently)といった用語が持ち出される。なぜ、CEFRではこうした価値が称揚されるのか。日本語のケースを考えればすぐわかるが、「よどみなさ」や「さりげなさ」は決して普遍的な価値ではない。日本語ならむしろ「一生懸命」であったり、「たどたどしいけど、慎重」くらいが好印象を与えるだろう。
西洋語でこうした要素が価値を持つのは、言葉の力と政治力が直結する伝統があったからだ。ギリシャ・ローマの時代以来、政治行政をはじめとする西洋の諸制度は、口頭で行われることを前提とした。その結果、公の場でいかに言語運用能力を示せるかが大事になる。相手よりも優位に立ち社会的な地位をも高めるためには、オーラルのパフォーマンス力を示す必要がある。「流麗さ」に重きを置く価値観はそのあたりから出てきた。
しかし、そうした流麗さを崇めるイデオロギーは、多言語社会や帝国主義後の世界では特有の価値観と結びつく。いわゆる「ネイティブ・スピーカー信仰」だ。誰もが知っているとおり、外国語は勉強したからといって流暢にしゃべれるとは限らない。もちろんそれは知性の証でもない。英語教育関係者ならこうした事情は嫌というほどわかっているだろう。英語の勉強が好きで頭がよく英語の知識がある人でも、うまくしゃべれない人はいくらでもいる。
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