灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(79)
人は悲しみの淵から底に落とされるのをあれこれ悩んでいるときよりも、むしろ底に落ちてしまった時の方が強い。
これからは上がっていくしかないのだから。
初出勤から3日目、あきの「給与取り」生活が本格的に始まろうとしている。
狭いアパートの中で引きこもるような生活から、出勤という朝の若い光が差し込む生活が始まっている。
山手線の電車を新橋で降りて、正面口の方に階段を下りる。改札とその先に広がる広場に大勢の人が早足で行きかう。
「さあ、私はこれから働きに行くのだ」
万歳したいくらい勇ましい気分がよぎる。
銀座7丁目の資生堂。
ビルの階段を5階まで上り部屋に入る。
「おはようございます」
先輩たちに一礼をし、あてがわれた自分の机に座る。他の社員よりも2時間遅れの出勤と決められているため、この挨拶で良いか悩んだが仕方がないと恐縮する。
自席に落ち着き、何となく机の上のペン皿やインキ壺の位置を直してみたり、机の引き出しを開けたり閉めたりとしてみる。
するともうやることが無いのだ。手持ちぶさたを通りこして、身の置き所もない状態だ。先輩たちは1人1人段取りよさそうにきびきびと何かの作業をしている。
誰からの指示もなく、こうして待っていればよいのかもわからず、じっと机で数時間過ごす。
夕刻が近づき、諸先輩よりも2時間早い退社時刻になると、「では、お先に」と小さい声でこそこそとコートとえりまきを持って、追われるようにビルの階段を下りる。
銀座の空の下に出て、あきはふーっとため息をつく。
こんな繰り返しが2週間以上も続く。これでは給与取りでなく給与泥棒なのではないかとも思う。
「まずは会社の空気に慣れることです」
と重役たちからの指示なので、その通りにしているつもりだ。
ずっと机に座っていることは肉体労働に比べれば楽かもしれないが、なかなか辛いものがある。しかしここにいるからこそ給与がもらえるというのだ。
やはり、縁故入社、情けをかけられての入社を、運が良いと思うしかない。
かなしいかな、会社は誰も自分になど期待していないのが現実だ。
昭和20年代、日本女性の化粧は白い粉に赤い口紅という、明治時代からつづく定番スタイルから徐々にではあるがあきらかな変化をみせていた。それは敗戦により入ってきたアメリカ文化と、欧米からの映画の影響が大きい。
顔を立体的に、光沢を持たせるように。
西洋人の様な縦にも大きい二皮の明眸になるにはアイメイクが必要だ。アイライナーやマスカラも売り出されていく。
昔は芸者や上流階級という一部の女性たちの贅沢品という位置付けの化粧品が、一般女性の必需品に生まれ変わりつつある過渡期である。
ちなみに化粧品にかけられていた120%という物品税も、この頃ようやく30%にまで下げられた。
戦前は化粧品を使うのは若い女性が多かったが、今は結婚してからの多少裕福な女性も使うようになり、若返りとしての化粧品を求めるようにもなっている。そうなると市場はさらに広くなる。
さらに和装から洋装が増えたことから肌の露出が多くなり、足のつま先まで気を使う女性が増えたことによって、全身美容も注目されている。
それでも日本女性の1人当たりの化粧品消費量はアメリカの5分の1にもならないというから、これから恐ろしく伸びしろのある業界だった。
あきにとっては昭和の初めに見てきた欧米の女たちからの学びで、日本女性の化粧との違いは先刻承知だった。
リゾートでの日光浴によって作られた小麦色の肌に合う艶やかな粉、それに合う口紅の色はそれまで日本で見たことのない薄い橙色だった。
そしてイタリアの産院で見た、マスカラのブラシで入念にまつ毛を塗る妊婦たち。
義江と交際していたというローマのボルゲーゼ公園でばったりと会った女も、艶やかな小麦色の顔に太いアイライナーを描き、まばたきの度にマスカラの付いた長いまつ毛が揺れていた。唇には薄い橙色と桃色を混ぜ合わせたような口紅をのせ、いかにもしなやかに活動的だったことが思い出される。それは確か、義江を追ってイタリアに「逃避行」した時のことだったから昭和5(1930)年だ。
そして、ニューヨークで見てきた化粧品会社が提唱する全身美容法。
どれも戦前に現地で目にして驚いたものだが、今20年以上の時を経て日本に情報が入ってきたようだ。
白塗りに赤い口紅おちょぼ口も、日本の文化である。しかしこれからは西洋文化が新しい常識として定着していくのだろうかと、あきは洋装スタイルの若い女性たちとすれ違いざまにぼんやりと思う。
あきが入社した資生堂は、明治5(1872)年、民間洋風調剤薬局として銀座に創業した。漢方薬が主流の日本において、西洋医学を取り入れた医薬品を販売していた。
明治21(1888)年に、今まで粉歯磨きが主流の日本において初の練歯磨「福原衛生歯磨石鹸」を発売。粉の様に飛び散ることなく船の上でも使い勝手が良いということでまず始めに「海軍」に定着し、粉歯磨きの10倍の値段だったにもかかわらず一般にも普及していった。
その後明治30(1897)年、“赤い化粧水”と呼ばれるようになる「オイデルミン」発売を契機に化粧品業界に進出する事になった。
実はその前に「けはえ薬・蒼生膏」という育毛剤を売り出したが、創業者で開発者の福原有信の頭がツルツルだったため、銀座界隈では笑い話となったという逸話もある。
薬品から化粧品へと主軸を移した資生堂は、大正5(1916)年には、「意匠部」という今で言うクリエイティブ本部を設置した。新聞や雑誌の広告、ポスター、パッケージデザインや、店舗設計までのブランディングを始めていった。活躍したのは東京美術学校の学生や若手画家。初代社長の福原信三(有信の息子)は、包装紙や容器、ラベルのデザインにも最高の品質を求めたという。
資生堂は昭和24(1949)年に東京証券取引市場第1部に上場している。昭和28(1953)年5月期の売上高13億8600万円に対し3億200万円の利益を計上。従業員は1000人を超える勢いだ。
化粧品の需要は安定しやすく景気にも左右されにくいということで、投資家も注目している企業だ。
いや、投資家よりも何よりも、化粧品を手に取り肌にすり込ますのは女性たちだ。
新聞や雑誌に明治の時代から掲載される資生堂の広告は、歯磨き粉や石鹸という生活品から、もっと夢のあるものにスポットライトを当てて宣伝広告が始まっている。
あの化粧水を使ったらもっときれいな肌になり美しい女性に生まれ変われるかもしれない、あのコールドクリームを使ったら、私は翌朝映画女優のようになっているかもしれない。
震災、恐慌、戦争で、装うことなど忘れていた女性に、美しく描かれた女性の絵は光と希望を与えてくれる。
あきは銀座の資生堂を出て新橋駅に向かう途中、コートの衿をおさえながら今日1日何をしたかふり返ってみると、お昼を食べたことだ。
よく藤原歌劇団の切符を買ってもらいに大企業におじゃましたとき、多くのサラリーマンたちが雑誌や新聞を読んでいた光景を見たことを思い出す。
知り合いの新聞記者に相談してみる。
「とても間がもてないのよ」
「そんなことじゃ駄目ですよ。新聞記者だって一人前になる前は、机に向かってザラ紙に鉛筆でいたずら書きしていますよ。何か仕事の役に立ちそうな本でも読んでいればいい。用事がやって来るのを待っているんですよ」
「給与取りっていいわね」
そう思ってみたものの、それは何か違うと勤勉に育てられた明治の女あきは思う。
2週間が過ぎ、会社の勝手もなんとなく分かりだすと、あきは会社の宣伝雑誌の編集室に顔を出して雑談するようになったり、江東にある化粧品の製造工場の見学に出かけたりもした。工場では石鹸の製法、香水の製造法、今流行の落ちない口紅について、また皮膚から吸収するホルモンの研究などを学んだ。
行動的になった矢先に、あきにはじめて任務(ミッション)が与えられた。資生堂の会報誌『花椿』の編集長からだった。
「そのうちにアメリカから映画女優が来る筈ですから、ひとつインタビューして下さい」
「ええいいわ」
胸を張って答えたあきは、その後その女優はマリリン・モンローだということを知り驚愕する。
マリリン・モンローといえば『紳士は金髪がお好き』『七年目の浮気』などですでに全米でも大スターとなっていて、新婚の夫メジャーリーガーのジョー・ディマジオとの新婚旅行をかねた来日だという。
2人が来日する2月1日の早朝、あきはカメラマンと羽田空港にいた。
あきはその人の多さに驚く。人、人、人でインタビューどころか夫妻の姿さえも見えない。
2月2日は帝国ホテルにて正式な記者会見が行われたが、『花椿』編集長の意向で単独のインタビューが欲しいとのこと。
2月5日。あきは早朝の帝国ホテルに行く。犬丸一郎副支配人に滞在中のモンローの動向を聞いてみる。
「今日は風邪を引いて寝ているらしいんです。9時半に美容室に約束してあったのに、それも取り消し、朝食も1人前、ディマジオの分だけしか出ないんですから、本当の病気でしょう」
納得のいかない顔をするあきに、
「部屋のボーイに言って、お掃除しましょうかと聞いてみましょう」
ロビーで待っていてもモンローと会えないのなら、泊まり込み、部屋女中として部屋に入りお茶でも出したい。
やがて返事があり「マリリン夫人は奥の寝室で寝たきりで掃除も無用」との返事があった。翌日モンローは日本を去ったという。
何とも言えないあきのぬるい仕事ぶりを紹介しているような気もするが、時代や『花椿』という品の良い媒体を考えると、あきは奮闘したと言ってよいかもしれない。
男性記者がマリリンに問うた答えの「寝るときはシャネルの5番のみつけるわ」という伝説となったインタビューも良いが、女性同士の楽屋話的な化粧の話が聞けなかったことは残念だ。
帝国ホテルの犬丸副支配人は、はじめなぜ藤原夫人がマリリン・モンローに、そしてあちらでの知り合いなのかと思ったという。
まさか藤原夫人が職業婦人になったとは意外だった。
あきは正式に資生堂会報誌『花椿』の編集室に配属が決まった。
『花椿』は文化の情報源として大正13(1924)年、文化雑誌『資生堂月報』として創刊された。
日本の化粧品業界としては初めての情報誌で、「美と若さを保つ健康法」といった美容記事のほか、小説やエッセー、「コーヒーの淹れ方」などさまざまな記事を掲載。パリのファッションやヘアスタイルなど、海外のトレンド情報も多く紹介し、現在も年に4回発行されている。
アーティスティックな写真に、選りすぐりのテーマと文章、丁寧に作り込まれているという印象が強い。
あきの仕事は、簡単にいうと取材だ。名流夫人や文化人のもとを訪ね、『花椿』に掲載する原稿の依頼をしたりまたは自分で書いたり、同行のカメラマンが撮る写真の手伝いなど。
あきの昔の華やかな社交生活を買われてのことだろう。古くからの知人に登場をお願いしている。
すべてがうまく運んでいると思う最中、ぴしゃりと頬を叩かれるような出来事もある。
親しい夫人の所に取材に出かけ、カメラマンの撮影も終了した。夫人は掲載写真を見せてくれと言う。「おめにかけます」と約束したあき。
約束だからと写真部から来た1枚を郵送するあきに、編集部からは、
「雑誌も出ない前に掲載する写真を送るなどということは例がない」
と軽くたしなめられた。
そこまでならいいのだが、夫人の方からは、
「写真を見てよかったら掲載させると言ったのに、1枚の写真を勝手にのせますとは不誠実極まる。あの写真の掲載はまかりならぬ」
という返事をもらう。
すでに印刷は出来上がっていた。しかし夫人の剣幕は激しいものだった。あきは編集長に頭を下げ写真をボツにし、テーマも少し替えることを決めた。
翌朝、熱海まで行き夫人が指定したパリからの服を一揃い借りて最終便で東京に戻り、その翌日、モデルを使い写真を撮る。これでどうにか印刷所へ回すことが出来て、発行に間に合った。
自分の甘えがいけなかったのだろう。
親しいと思っていた夫人との意思の違い。
精神的な疲労と肉体的な疲労があきに襲いかかる。
仕事を終え、家に戻る途中、あきは暖簾の向こうで一杯ひっかけたくなった。
「嗚呼、仕事ってこんなものかもしれない」
サラリーマンたちの気持ちがこの歳ではじめて分かったような気がした。(つづく)