東大教授が斬る「大学入試英語の民間試験、延期ではなく理念の見直しを」
人間のスペック管理の道具
この評価の枠組みを説明した英文資料は273頁に及び非常に細かい。その上、記述があまりに具体的すぎて、読んで理解するだけでもひと苦労なのだ。もちろん、その背後にある思想には立派なところもある。立教大学の鳥飼玖美子名誉教授は次のように説明する。
〈EU圏内では、人々は自由に移動し、仕事をします。その時に、英語はTOEFLでは〇〇点で、TOEICで〇〇点、ドイツ語はOSDで〇〇点……と別々の評価基準で言われてもわかりづらいですよね。そこで、どのように言語を教え、どう評価するかを40年近くにわたり言語教育の専門家が研究しCEFRを作り上げました。CEFRでは、Can Do statementsと呼ばれる能力記述文を使い、どんな言語であっても共通の尺度で言語能力を表せるのが画期的です〉(「英語教育に振り回され続ける日本人」WEDGE Infinity)
文科省もCEFRの考え方に基づいた「CAN-DOリスト」なるものを中等教育で活用させようとしている。ただ、この方針には大きな問題があるとも鳥飼名誉教授は指摘する。なぜなら、文科省は本来は「評価の枠組み」であったものを入試に流用することで「到達目標」に変えてしまったからだ。こうなると、「~ができる」というゆるやかな評価の枠組みであったものが「~できなければならない」「~できさえすればいい」という歪んだ形で生徒に受容されかねない。
「~ができる」というチェック項目を一つ一つ判別するCEFRの指標は、まるで家電のスペック表のようでもある。たとえばコピー機なら、1分間に白黒で30枚印刷できる、カラーだと10枚印刷できる……といった「能力記述文」がつきものだ。そういう視点から見ると、CEFRはまさに人間のスペック管理の道具とも見える。
ヨーロッパでCEFRが必要となったのは、移民や海外からの労働力とどう向き合うかが切実な問題だったからだ。具体的な指標があれば、労働者のスペック管理は容易になる。チェックリストを活用すれば、この人は工場での単純労働に従事できるか、携帯電話のセールスができるか、特派員のアテンドができるか、といったことも判断できる。労働力の購入者にとってはとても便利。労働力を売る側にも益はある。
しかし、そうしたスペック管理の道具を、日本の中等教育の指標にすることは適切なのだろうか。たとえば日本の高校生が「将来、英語圏に行って、皿洗い要員として働きたいなあ」とか「携帯電話のセールスをしたいなあ」といった明確な目標を持つなら、CEFRを参照することにも意味があるだろうし、学校もそれなりのカリキュラムが組めるかもしれない。しかし、中学高校の段階でそこまで具体的な目標を持っている人がどれだけいるだろう。何しろ今回の政策の出発点は「英語、しゃべれるようになるといいよねえ~」という程度の、どこまでもあいまいな気分だったのだ。「何を」「どの程度まで」できるようになりたいかなど念頭にない。また、中高生を「できる」指標で管理し、産業の歯車のように扱うことも問題視されていいだろう。言葉を道具としか見ない発想の向こうには、「従業員は企業の道具だ」という考えが透けて見える。
そもそも日本人の9割は日常的にはほとんど英語を使っていない。そんな現状で、中高生を英語圏への移民労働力予備軍のように扱う意味があるのだろうか。このCAN-DOリストの利用は、関係者の意図にかかわらず、またその一見前向きの方針の陰に、そうした思想が流れこむ危険を宿してしまうのだ。
(2)へつづく
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