首里城焼失・修復を支えた当事者たちが語る「喪失感」と「復活への決意」
現場で技を伝授して
本土復帰前から沖縄の文化財復興に携わってきた、鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(90)も、
「首里城は戦前に国宝指定されていて、昭和の初めに文化財としての修理を受けている。その時にしっかりした図面が作ってあって、また尚家に残っていた地図にも正殿の内装が詳しく記されていたので、その二つを合わせて正確な図面を描くことができたのです。私は当時、その作業を監督していました」
との一方で、
「大変だったのは資材の確保です。沖縄の原木は戦災で失われていたから、代わりに台湾ヒノキを用いた。当時は赤瓦を作っている業者も県内に一つしかありませんでした。工法も王国時代と同じく、柱を繋ぐ横材を現在の建物より多くしました。構造の安全性を確かめるため、10分の1サイズの模型も作りましたね」
さらに、人員招集もひと苦労だったという。
「当時、沖縄には伝統建築を担う宮大工がおらず、大工はもっぱら本土から呼んでいました。正殿の工事には12~13人の大工が関わっていて、作業期間中にその技術を、地元の職人に教えたりもしていました」
実際に福井県から参加し、副棟梁として現場管理や施工図作成に携わった、宮大工の山本信幸さん(61)が言う。
「沖縄の建築は、柱の数が多く木の組み方も独特で、内地の城とは全く異なります。その上、史実に合わせて復元しなければならず、出来上がった設計図通りに造っても微妙に異なるおそれがあるので、ともかく古い写真を見ながら、自分の意見を加えずに忠実に再現するよう努めました」
今回、担当した正殿の屋根が崩れ落ちる映像を目の当たりにした山本さんは、
「一緒に造りあげた建築士、瓦や螺鈿(らでん)の職人など、様々な人のことが頭をよぎって涙がこぼれました。前回は内地の人間が多く関わりましたが、この30年で地元の大工さんの技術も育ってきているので、次は沖縄の人を中心に、我々がそれを支える形で再び復元できればと思っています」
(2)へつづく
[2/2ページ]