伝統と文化豊かな「東欧」で医学を学ぶ意味 医療崩壊(29)
東欧の医学部が関心を集めている。ハンガリー、スロバキア、チェコなどの医学部に約600人程度の日本人が学んでいる。
最も多いのは、ハンガリーで約500人だ。2006年から受け入れが始まり、2018年までに88名、2019年の夏には18人が卒業した。71人が日本の医師国家試験に合格し、合格率は81%である。
なぜ、日本の若者が東欧に行くのだろうか。それは英語で授業を受けることができて、経済的な負担が比較的軽いからだ。
ハンガリーのセンメルワイス大学で学ぶ吉田いづみさんは、「学費は年間170万円、生活費は月に10万円程度」という。年間の費用は約300万円。これならサラリーマン家庭でも何とかなる。
医療ガバナンス研究所には、東欧で学ぶ多くの医学生が訪れる。長期休暇にはインターンをする人もいる。今年の冬休みにも何名かが希望している。
私は彼らに課題を出している。ハプスブルク家について学ぶことだ。今年は日本とオーストリアの国交が樹立して150周年。9月には秋篠宮佳子さまがウィーンを訪問した。今年4月24日~8月5日には国立新美術館(東京・六本木)で「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」が開催された。10月19日から来年1月26日まで国立西洋美術館(東京・上野)で「ハプスブルク展」が開催される。
オーストリア、そしてこの地を中心にかつて欧州を仕切ったハプスブルク家を学ぶには格好の機会だ。
私は、東欧で学ぶ医学生と交流し、ハプスブルク家のことを強く意識するようになった。なぜなら、彼らが学ぶ国は、すべて旧ハプスブルク帝国領だからだ。
ハプスブルク家を知るために、1冊だけ推薦するとすれば、岩崎周一氏の『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書)だ。コンパクトにまとまっていて、私のような素人にもわかりやすい。
ハプスブルク家は、オーストリア、スロベニア、イタリア北部、ラインラント(ドイツ西部)を世襲し、ベーメン王冠領(現在のチェコやポーランド)、ハンガリー王冠領を支配した。長年にわたり神聖ローマ帝国皇帝の地位を独占した。彼らが通う医学部は、基本的にこのような地域に位置する。
教育に熱心だったハプスブルク家
この地域の教育は、ハプスブルク家との関係が深い。前出の吉田いづみさんは「私の大学はマリア・テレジアが提案し、彼女の専属医師だったオランダ人が主導して1769年に設立された」という。
スロバキアのコメニウス大学で学ぶ妹尾優希さんは「コメニウス大学は20世紀初頭に出来ていますが、前身の教育機関は1465年に設立され、ハプスブルク家の影響下で発展を遂げています」という。
中世の欧州を仕切ったのは教会だ。教会は教会思想の普及や統一を推し進めるため、大学設立を支援した。官僚や医師などの専門職を育成するため、ハプスブルク家などの世俗権力も協力した。中世末期に欧州には約80の大学が存在し、ウィーン大学、ナポリ大学、プラハ大学などはハプスブルク家が支援した。
前出のマリア・テレジアは18世紀啓蒙主義を象徴する人物だ。強力に近代化を推し進め、特に教育政策にウェイトを置いた。教育を教会の手から奪い、国家が運営するようにした。全ての「臣民」に初等教育を義務化した。
彼らが教育を重視したのは、その地理的な要因が関係する。内陸に位置するハプスブルク帝国は海軍を保有しなかった。18~19世紀にかけて、英仏など西欧列強は植民地獲得競争を繰り広げた。アジアを初めとした海外との交流が富を産み、科学技術を進歩させた。しかし海のないハプスブルク帝国は蚊帳の外だった。
ハプスブルク帝国は焦ったのだろう。ナポレオン戦争後にベネチア海軍を継承すると、1857年4月から2年4カ月をかけ、帆走フリゲート艦ノヴァラ号を用いて世界を一周する。海軍軍人345人に交じって、7名の科学者・スケッチ画家が同行したという。このときに収集された物品は、現在もウィーン自然史博物館に陳列されている。
1918年、第1次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が消滅するまで、この地域の文化はハプスブルク家の庇護・影響を受けながら発展した。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、フランツ・シューベルトらはウィーンを舞台に活躍し、『変身』で有名なチェコ出身の作家フランツ・カフカのファーストネームは、オーストリア帝国の「最後の皇帝」と言われるフランツ・ヨーゼフに由来する。治世は68年におよび、国民から絶大な信頼を集め、「国父」と称された。
この地域は、医学でも多くの人材を産みだした。精神分析学のジークムント・フロイト、胃がん切除をはじめて成功させたテオドール・ビルロート、ABO血液型を発見したカール・ラントシュタイナーなどは、ウィーンを舞台に活躍した。
近代遺伝学の礎を作ったグレゴール・メンデルは、チェコのモラヴィア地方の修道院長だ。いかにハプスブルク帝国の文化レベルが高かったかお分かり頂けるだろう。
「帝国」は崩壊しても
20世紀に入り、ハプスブルグ家の評価は地に落ちる。第1次世界大戦の敗戦で帝国は解体され、ハプスブルク家は「守旧的な時代遅れ」の象徴とされた。1919年に成立したハプスブルク法によって、ハプスブルク一族は財産没収の上でオーストリア国外へ追放となった。一族でオーストリアに留まりたい人がいれば、ハプスブルク家と絶縁し、統治権を放棄しなければならなかった。その後、東西冷戦時代、ハプスブルク領の多くはソ連が支配することとなる。
ハプスブルク時代の再評価が進んだのは、冷戦終結後だ。チェコ出身の作家であるミラン・クンデラは「この帝国は、数々の欠陥にもかかわらず、かけがえのないものだったが、不満を抱いた他の中央ヨーロッパの民族は、それを理解しようとせず、1918年、帝国を解体してしまった」と述べている。
冷戦終結から30年が経過した。中東欧の状況は大きく変わった。経済成長が順調で、自動車産業を中心にドイツ、イタリア企業が進出している。ハプスブルグ帝国時代以来の交流が復活しているのだろう。
前出の妹尾優希さんは、「クラスメートの8割以上は旧ハプスブルク帝国領の出身者です」という。
近年、このコミュニティに入ろうとしているのが中国だ。オーストリアでは、この10年で対中輸出が倍増し、2017年には大連からスロバキアのブラチスラバまで鉄道が通じた。
わが国でハプスブルク帝国に飛び込んだ人物としては青山光子が有名だ。オーストリア=ハンガリー帝国の駐日代理公使ハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギーと結婚した。息子のリヒャルト(青山栄次郎)は1920年代に「パン・ヨーロッパ」を唱えた事で知られている。彼が共に活動したのが、ハプスブルク帝国解体後に家長を継いだオットー・フォン・ハプスブルクだ。彼らの活動は、第2次世界大戦後にEC(ヨーロッパ共同体)・EU(欧州連合)へと繋がる。
国民国家・ナショナリズムのなれのはてが2度にわたる世界大戦だった。民族自決の風潮のもと、多民族を抱えるハプスブルク帝国には遠心力が働き崩壊した。
ハプスブルク帝国には、長い歴史を通じて培った多民族を包括する伝統がある。グローバル化が進む近年、強力な武器になる。
学問は、この地域の財産だ。かつて芸術や学問を志す優秀な若者は、ウィーンやプラハを目指した。いまは医学部だ。多くの日本の若者が飛び込んでいる。医学教育の今後を考えるにあたり、世界を俯瞰した視点が必要である。