「死んでくれれば楽になれる……」在宅介護の悲劇に共通する「危険な徴候」とは
「裁判官が泣いた介護殺人」10年後に判明した「母を殺した長男」の悲しい結末
2019年夏。京都市伏見区の住宅街の間をゆったりと流れる桂川の河川敷には、散歩やサイクリングを楽しむ人たちが行き交う。しかし遊歩道沿いにはあの「大きな木」はもうなかった。
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13年前の2月、その木の下で近くに住む無職の男性(当時54歳)が、認知症の母親(86歳)の首を絞めて殺害する事件が発生した。裁判では認知症の症状が悪化する母親の介護に男性が疲弊し、経済的に困窮していく様子が明らかになった。母子の悲劇に同情した裁判官が法廷で目を真っ赤に腫らしたことから、「地裁が泣いた事件」と呼ばれ、語り継がれている。
裁判では2人の最後の会話が明らかとなった。
男性「もう生きられへんのやで。ここで終わりや」
母親「そうか、あかんのか。一緒やで。お前と一緒や」
男性(泣きながら)「すまんな。すまんな」
母親「こっちに来い、こっちに来い」(母親が男性の額に自分の額をくっつける)
母親「お前はわしの子や。わしがやったる」
男性「もうえーか。最後やで。お袋が行って、すぐにわしも行くからな」
母親の「わしがやったる(殺したる)」という言葉を聞き、54歳の息子は母親が死ぬ覚悟を決めたと悟る。そして母親の後ろに立つと、手やタオルで母親の首を絞め続けたのである。息絶えると、今度は自分の首をナイフで切りつけるも、自殺に失敗した。
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」
裁判では検察官が、長男が献身的な介護を続けながら、金銭的に追い詰められていった過程を述べ、「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介すると、目を赤くした裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。
男性は裁判で次のように語ったという。
弁護人「お母さんを手にかけた瞬間はどのように思いましたか」
男性「タオルで首を絞めた時にどうしても手が緩みました。母が『早くせえ』と言いました。『すまんな、すまんな』という言葉しか出なかった。早く僕も死にたかった」
弁護人「自分だけ生き残ってしまったことについてはどう思いますか」
男性「悲しすぎます。母の事が大好きでした。母が生かしてくれたと思います」
検察官「あなたは警察の調書で86歳まで生きると話していましたが、それはなぜですか」
男性「母が死んだ時の年齢です。それを超えるまで生きなければいけないと思いました」
検察官「今の言葉をこの法廷にいる全員が聞いていますけど、約束できますか」
男性「できます」
しかし、男性が約束を守ることはなかった。2014年に滋賀県の琵琶湖大橋から投身自殺したのである。発見時の所持金は数百円、身につけていたポーチには「一緒に焼いて欲しい」という小さな手書きのメモとともに、自らの「へその緒」が入っていた。それは毎日新聞大阪社会部が介護に関連する事件の取材を重ねるなかでのスクープ だった。この悲劇のレポートは『介護殺人 追いつめられた家族の告白』(新潮文庫刊)にまとめられているが、同レポート以後、「介護殺人」という言葉は良くも悪くもすっかり市民権を得てしまった。
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