「エコは人間のエゴ」という悟り:『寄生獣』岩明均

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 16歳の少女の “How dare you”という火を吹くような糾弾が世界の注目を集めたかと思えば、日本では国会議員の公党党首が世界的な人口増について、「あほみたいに子供を産む民族はとりあえず虐殺しよう」と公言して騒動を起こしている。

 後者の暴言は論外として、環境問題が取りざたされると再読したくなる漫画が、岩明均の『寄生獣』(講談社)だ。

 最初にお断りを。今や古典的名作と言って良い漫画でもあり、今回はネタバレ全開で書く。

 万が一、未読という方は先に漫画をお読みいただきたい。全巻大人買いの価値十分な文句なしの傑作だ。

表層的なテーマは「間引き」

 「地球上の誰かがふと思った」

 「人間の数が半分になったらいくつの森が焼かれずにすむだろうか……」

 第1話の冒頭には、宇宙から地球を見下ろす遠景をバックに、話者を明示しないこんなナレーションが流れる。

 この言葉が示す通り、表面上、『寄生獣』のテーマは人口抑制、露骨に言えば人間の「間引き」だ。パラサイトと呼ばれる出所・正体不明の寄生生物は、人間の頭部を乗っ取り、高い戦闘能力を持った人食い生物に変える。パラサイトは「この『種(=人間)』を食い殺せ」という「命令」を自覚し、それを行動原理とする。

 パラサイトの存在意義が人類の天敵となって地球環境を守ることにあるという切り口は作品を貫く太い軸となっている。人類対パラサイトの対決の山場で、地方都市の市長・広川が演説するシーンを記憶している読者は多いだろう。東福山市をパラサイトのコロニーにしようと目論んだ広川は、武装部隊を前に「人間どもこそ地球を蝕む寄生虫‼」「いや……寄生獣か!」というセリフを吐く。

 もっとも、この「人間対パラサイト」という構図は、『寄生獣』の作品世界の表層でしかない。「虐殺」という言葉を軽々に口にする政治家レベルの安っぽい世界観にとどまる作品なら、これほど読みつがれる名作になりえなかっただろう。

揺さぶられる「境界」

 『寄生獣』を傑作にしているのは、単純な二項対立の構図ではなく、人間とパラサイトの境界を行き来するキャラクターたちが成す重層的なテーマの掘り下げだ。

 人間の脳を残したまま右手に入り込んだパラサイト「ミギー」と共生する主人公・泉新一だけでなく、人間の子を産み育てる田村玲子、連続殺人犯でパラサイトとの特殊な繋がりを持つ浦上、人間の身でありながらパラサイトに共感する広川など、多彩なキャラクターがそれぞれの視点と言動で「あちら」と「こちら」の境界を揺さぶる。

 中でも最も魅力的で裏の主人公とも言える存在感を発揮するのが田村玲子だ。

 この高い知能と探究心を備えたパラサイトの異分子は、新一とミギーの共生に興味を抱き、様々なアクションを仕掛ける。それは学校を舞台とした戦闘などの活劇部分のお膳立てだけでなく、「人間とは何者か」というこの作品の最大のテーマを深耕する重要な役回りを担う。

 警官隊の銃撃から「異種」である我が子を守る田村玲子の最期は、名場面・名セリフの宝庫である本作の中でも、緊張感と複雑に交錯するキャラクターたちの感情を描き切った最高のシーンだ。「寄生生物と人間は1つの家族だ 我々は人間の『子供』なのだ」という遺言は、読み手に重い課題を突きつける。

エゴと人間愛

 重層的なアプローチは、5体の寄生生物の集合体である究極のパラサイト「後藤」との対決の結末にも見られる。

 環境汚染が生んだ「毒物」で決定的打撃を受けた「後藤」に、新一は逡巡しながらもとどめを刺す。その決断に至るまでに、新一は「人間と……それ以外の生命の目方を誰が決めてくれるんだ?」と自問し、人間にできるのはせいぜい自分の手がとどく範囲の世界を守ることだけだという諦念とも言える考えにたどり着く。

 そこには「地球を救おう」といった綺麗事のフレーズに逃げず、「エコロジーとは所詮人間のエゴでしかない」というドライな価値観が流れている。それが冷笑的言説として響かないのは、環境問題や人間のあり方という主題だけでなく、本作が人間愛を正面から描いているからだろう。

 パラサイトに殺される新一の母・信子や恋人・村野里美、非業の死を遂げる少女・加奈など新一と直接関わりを持つ人物たちだけでなく、冴えない探偵の倉森などの描き方も読み応えがあり、キャラクターへの共感が「説教臭さ」を和らげる。

 テーマと人間ドラマを深掘りするため、あえてコンパクトに舞台を絞り込んだ作劇術の巧みさも指摘しておきたい。ストーリーは学校や家庭などほぼ新一の生活圏に限られ、「どこにでもあるありふれた風景」からはみ出ることはない。人食いパラサイトという設定はその気になれば世界的なパニックとして描けるテーマだが、あえて物語を「箱庭」に押し込めたのは登場人物たちを接写して描くための選択だろう。 

 新一・ミギーのコンビが様々なパラサイトとの対決を乗り越える「バトルもの」としての面白さも、読みかけたら止まらない勢いを生む原動力だ。この面では、致命傷を負ったのをきっかけにミギーとの「混合」が進み、それが新一の身体能力と心理に影響を与えるという筋立てが絶妙。バトルの戦略に変化をもたらしつつ、ありがちな「戦闘力のインフレ」を回避する絶妙のバランスを保っている。

環境保護と成長は両立する

 冒頭に紹介した最近の環境問題を巡る言説について、『寄生獣』という作品の力を借りて私見を述べてみたい。

 私はグレタ・トゥンベリさんの活動や国連でのスピーチを基本的に支持している。共感した世界中の若者が気候変動の脅威について大規模なアクションを起こした一事をもっても、彼女の歩みは偉業といって良いだろう。

 米国を起点とした自国第一主義が広がる世界において、気候変動に取り組む国際協調の枠組みは揺らいでいる。今後、より長くこの星に住む若者たちが「大人の怠慢」に怒りの声を上げるのは理解できる。

 気がかりなのは、彼女の挑発的な言動が、世代間あるいは保守・リベラルの対立を煽る材料に利用されやすい側面を備えていることだ。いわゆる「飛び恥」を意識してヨットで大西洋を渡るといったパフォーマンスは、反対勢力に冷笑の材料を与えるだけの悪手だった。

 スピーチで賛同しかねるのは、「あなた方が話すのは、お金や永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり」と、成長と環境問題を両立しない対立軸であるかのように指摘した部分だ。現実の環境問題の解決には、途上国を含む世界経済全体の底上げとイノベーションが欠かせない。四半世紀前には高コストで非実用的だった再生可能エネルギーは、技術革新によって急速に普及した。そうした進歩を支えるのも「お金や経済成長」であり、成長と環境問題は、対立軸ではなく、むしろバランスを取りながら同時に追求すべきものだ。

 急進的なリベラルには、自らが「歴史の正義の側」に立っているという自覚から、保守層に対して「気候変動を軽視・無視して富を求める無知で強欲な輩」といったレッテルをはる傾向がある。社会の大部分を構成するどっちつかずの中間層に対する訴求力を考えても、極論は害が大きい。「資源の無駄遣いをやめよう」「汚染はできるだけ減らそう」という主張は共感を得られても、「そのために貧しくなることを受け入れよう」という路線は訴求力を持ちえないだろう。人類全体はまだそこまで豊かではない。

 気候変動に限らず、地球規模の問題には、対立ではなく協調、シニカルな縮小均衡ではなくポジティブな営みでしか、解決の道は開けないと私は信じる。最大公約数として共感を得られる目標は、「人間にとって地球を居住可能な快適な場所にとどめる」というあたりまでではないだろうか。

 『寄生獣』のラスト近くに、「人間の物差しを使って人間自身を蔑んでみたって意味がない」というフレーズが出てくる。直後のエピローグ、姿を消したはずのミギーは新一の心象風景に現れ、「なぜ他の生き物の死を人間は悲しむのだろう」という問いにこう答える。

 「そりゃ人間がそれだけヒマな動物だからさ」「だがな それこそが人間の最大の取り柄なんだ」「心に余裕(ヒマ)がある生物 なんとすばらしい!!」

 最終ページには、第1話と同じ、宇宙空間から地球を見下ろす構図が描かれ、こんな言葉が配してある。

 「何かに寄りそい……やがて生命(いのち)が終わるまで……」

高井浩章
1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。
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Foresight 2019年10月22日掲載

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