阪神「近本光司」は“外れ外れ1位”、高校時代は甲子園と無縁、大阪ガスで才能が開花
甲子園とは無縁の高校生活
つまり、小柄ながら俊足巧打が、その“売り”なのである。もともと小・中学校と軟式野球部に所属していたが、高校進学に際しては報徳学園を筆頭に強豪私立ひしめく県内にあって、公立の有力校・兵庫県立社高校に進学する。
同校は04年の第76回春の選抜に初出場し、なんとベスト4まで進出したことがある。そして驚くべきことに、高校入学当時は野手ではなく“投手志望”だったそうだ。
今となって遠投100メートルという地肩の強さを聞けば納得も納得だが、1年生時は“小柄すぎる”という理由で身体作りを目的として外野手に転向することに。ただ、投手としての素質に非凡なものがあったため、当初は短期間の予定で、身体が大きくなれば投手に戻るハズであった。
ところが、足が速くて打撃も抜群。結果的にメキメキと頭角を現してしまい、外野手としてチームに必要不可欠な選手となってしまった。こうして高校3年間は外野手兼投手として活躍することとなったのである。
そんな近本は、2年夏の県予選ではチームのリードオフマンとして、3年夏の県予選では3番を任されるなど、まさにチームの中心選手へと成長していく。
しかし、この2年ともベスト8で惜しくも敗退(11年は川西緑台に1-3、12年は滝川二に4-7だった)。高校3年間での最高成績は高2の春の県大会準優勝(決勝戦で明石商の前に3-5で惜敗)で、甲子園とは無縁であった。
それでも最後の夏の県予選では全5試合で、打っては17打数7安打2打点で打率4割1分2厘という高打率をマーク、投げても先発&リリーフで計7回に登板。中でも5回戦の神港学園との一戦では6回を投げて1失点という好投を見せ、結果的にチームを2-1で勝利に導いている。
高校卒業後の13年春に関西学生野球連盟に所属する古豪・関西学院大学に進学。打者の手元で消えるスライダーを駆使した技巧派サウスポーとして期待されての入学だったが、肩ヒジの故障もあって、なかなか出番に恵まれず(3季連続でリーグ戦に出場することができなかった)、2年生の秋に外野手転向を決断。
その直後のリーグ戦で1試合ながら初出場を果たすと、15年の3年春のリーグ戦から1番または3番でセンターのレギュラーの座を獲得。するといきなり58打数22安打でリーグ3位となる打率3割7分9厘を記録。さらにリーグ最多となる10盗塁をマークし、ベストナインを獲得するという、まさに大ブレイクを果たしたのである。
だが、続く秋のリーグ戦で41打数11安打、打率2割6分8厘と低調な成績に終わると16年の4年春のリーグ戦では右ヒジを骨折してしまい、2戦目以降、欠場を余儀なくされてしまった。近本にとっては最後に残された4年秋のリーグ戦が復帰戦の舞台となったのである。
その注目の初戦だった。なんと京都大学相手に自身大学1号となるソロ本塁打を放ったのだ。まさに華麗なる復活であった。さらに立命館大学との初戦でも2号となる3ランを記録。そのときの対戦投手は17年のドラフト会議で横浜DeNAベイスターズから1巡目指名を受け、翌18年シーズンでセ・リーグの新人王に輝くことになる東克樹(23)であった。
[2/3ページ]