認知症の母が口紅をつけ満面の笑顔で――閉ざされた家族が再び社会へ開かれたきっかけとは【ぼけますから、よろしくお願いします。】
少女時代の面影
何年かぶりに、父はお客さんのためにコーヒーを淹れました。
そして、何年かぶりに口紅をつけて、若い男の人と上気してしゃべる母。その浮かれぶりは、娘として嬉しいような恥ずかしいような、目のやり場に困る気持ちです。
また河合くんが、女心をつかむのがうまいんです。
「お母さんは、お誕生日はいつですか?」
「私はね、1月5日。昭和4年1月5日」
「昭和4年。へえ、見えないですねえ。お若いですねえ」
「何を言うてんね、もう八十いくつのおばあさんじゃに……」
河合くんのお世辞に、母はパッと花が咲いたような満面の笑顔。
「子供のころはね、お誕生日の人は教室の前に出て、みんなに祝うてもらいよったんじゃけど、私は1月5日で冬休みじゃけん、学校で祝うてもらえんでねえ。さえんかったんよ」
へえ、そんな話、私も聞いたことなかったわ。
幼いころの記憶は、こんなにも鮮明に残っているんだなあ。
口紅をさして少し若く見える母の、はにかんだような笑顔に、少女時代の面影が見えるような気がして、私もほのぼのとした気持ちになりました。
父は、耳が遠いので、あまり会話には参加しませんでしたが、嬉しそうな母を見ながら、
「えかったのう。お母さんがあがいに(あんなに)楽しそうに笑うのは久しぶりに見たわ。ほいじゃが、わしも気がつかんかったが、いつの間に口紅つけたんかのう……」
とても感じ入ったようでした。
そして、河合くんが父に、
「コーヒー、ごちそうさまでした。とってもおいしかったです」
とお礼を言うと、
「ほんま? ありがとね」
父は声を弾ませました。よほど嬉しかったのでしょう。河合くんも聞いているというのに、お得意の鼻歌を歌い始めたりして。
なんだか、ここ何年か淀んでいた家の空気が、にわかに動き始めたようでした。
そう、この何年かぶりの第三者の訪問が、今思い返してみると、信友家の分岐点になったのです。
この日から、信友家はまた、社会へと開かれてゆくことになったのでした。<了>
この後、筆者が実際に地域包括支援センターに相談してみるという河合カメラマン同行の取材がきっかけで、信友家は介護サービスを開始することになります。ヘルパーさんの訪問や、デイサービス利用などが始まりましたが、母親の認知症の症状はゆっくりと進んでいき……。
これまでの連載を含め、今の信友家の様子までを収めた単行本『ぼけますから、よろしくお願いします。』(新潮社刊/本体価格1364円)が10月24日に発売されます。認知症介護に直面した家族のリアル――ぜひ、お手にとってみてください。
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