認知症の母が口紅をつけ満面の笑顔で――閉ざされた家族が再び社会へ開かれたきっかけとは【ぼけますから、よろしくお願いします。】

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口紅をつけた母

 河合カメラマンが東京から来てくれることになり、一足先に実家に帰っていた私は、

「ちょっと迎えに行ってくるわ」

 と両親に告げて、空港バスのバス停まで迎えに行きました。

 河合カメラマンには、

「父が頑固でね、知らない人は家に入れるなって言ってるから、家に入るのは難しいかもしれない。でも、せっかく呉まで来てくれたんだし、とりあえず挨拶だけしてみようか」

 そう言って恐る恐る実家に連れて行ったら、ビックリすることが……。

「まあまあ、おいでなさいませ」

 母がニコニコと出迎えてくれただけでも驚いたのに、なんと母は口紅をつけている!

 いったい何年ぶりでしょうか。

「いつも直子がお世話になっとりますねえ。狭い家じゃが、まあお上がりなさい。どうぞ、どうぞ」

 いきなり昔の社交性が戻ってきた母。私は感動して泣きそうだったのですが、

「どうしたんお母さん、口紅つけとるじゃない」

 敢えて茶化すと、

「あんたが、東京から仕事先の人が来てじゃ言うけんねえ。あんたが仕事でお世話になっとる人なら、お母さんもきちっとしとかんといけん思うて」

 母はさっき私が「仕事仲間を迎えに行く」と出て行ったのを一生懸命覚えてくれていて、化粧をして出迎えてくれたのです。

 ああ、やっぱり挨拶だけでもしてもらおうと連れてきてよかった。家に入れるなよ、という父の言葉に従って連れてこなかったら、せっかくの母のおめかしが報われないところだった。

 母に「まあお上がりなさい」と言われて、我が家に通された河合カメラマン。

 信友家にとっては、何年かぶりの来訪者でした。

 座敷で新聞を読んでいた父は、耳が遠いので玄関でのやりとりに気づかなかったようで、突然目の前に現れた若い男に、

「どうしたんな!?」

 と素っ頓狂な声。

「東京から来てくれたカメラマンの河合くんよ。玄関で挨拶だけしてもらおうと思うたら、お母さんが『お上がりなさい』言うたけん、あがってもろうた」

「……ほうか、それは、いらっしゃい」

 慌てて、家長としての威厳を取り繕う父。私には「知らんヤツをこの家に入れるなよ」と威勢のいいことを言っていましたが、いざ本人を前にすると、「帰れ」とも言えず、思わず「いらっしゃい」と言ってしまう――私は内心、父に申し訳ないやら笑えるやら。

「お母さんが口紅つけとるんじゃけど、お父さんが塗らしたん?」

「え? 口紅? いや、わしゃ知らんぞ。お母さんがそんなことしとるんか」

 父も、母が久しぶりの訪問者におめかししてウキウキしている姿を見て、感じるところがあったのでしょう。

「ほんなら、コーヒーでも淹れようかい。あんた、コーヒー好きですか」

「はい、大好きです。信友さんから、お父さんの淹れるコーヒーはおいしいと聞いてるので、楽しみです」

 さすが好感度の高い河合くん。コーヒー愛好者を自称する父の自尊心を、心地よくくすぐってくれました。

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