裁判では分からない「結愛ちゃん虐待死事件」の真実 雄大容疑者を苦しめた“実の両親”

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離婚歴のある相手と結婚…実家は結婚を猛反対

 入籍からほどなくして、雄大の結愛ちゃんへの虐待がはじまる。公判で優里は、入籍の直後までは家庭が穏やかで幸せだったことを認めている。

 なぜ雄大は途中からDVや虐待をはじめたのか。

 メディアでは、雄大のDVや虐待が長男誕生の直後にはじまったことから、実子を得たことで結愛ちゃんへの愛情が薄らいだというように報じられてきた。だが、公判でも報道でも、まったく明らかにならなかった事実がある。それは、雄大が実家の親に結婚を猛反対されていたということだ。

 雄大と実家ぐるみの付き合いだった友人によれば、雄大は父親から虐待ともいえる暴力を受けて育っていたそうだ。頭部の骨が変形するほどだったという。雄大は父親と距離があった一方で母親とは仲が良く、東京の会社を辞めて北海道にもどったのは、その母親と妹を助けるためでもあった。

 北海道から香川県へ移って結婚を決めた時、雄大は母親にそのことを報告した。すると、母親からこんなことを言われたそうだ。

「離婚歴のある女性との結婚は認めない。連れ子(結愛ちゃん)だって父親が誰かもわからないじゃないの」

 優里と結婚したら縁を切るくらいに責められたという。

 だが、雄大は母親の反対を押し切って優里と結婚し、結愛ちゃんを養子にした。これによって、彼は理想的な家庭をつくることで母親を見返そうと考えた。それが家族に認めてもらう唯一の方法だったのだ。

 しかし、入籍後間もなく、雄大は理想と現実の差異に気が付く。優里は社会経験がほとんどなく、生活や人間関係に関する常識に疎く、子育てについての認識も足りないように感じた。それゆえ、雄大は「自分が何とかしなければ」と考え、必要以上に優里に生活態度の改善を迫ったり、結愛ちゃんに過剰な勉強を強いるようになる。

 この頃、雄大は岡山に暮らす祖父母や友人のもとに家族をつれていき。結愛ちゃんがどれだけ優秀かを自慢していた。人一倍勉強ができて、かわいく、礼儀正しいのだとアピールしていたのだ。自分が「理想の家族」をつくり上げていることを示したかったのだろう。だが、優里と結愛ちゃんにしてみれば、それは無理やり押し付けられた勝手な理想でしかなかった。

 雄大は高い理想を掲げたことで、気がつかないうちに暴力を激しくさせていく。しつけと暴力がイコールになったのは、彼自身がかつて「頭蓋骨が変形するほどの暴力」を受けていた影響もあっただろう。

 児童相談所は、暴力の犠牲となっていた結愛ちゃんを2度に亘って保護する。雄大は児童相談所の指導を受けても自分のしたことは教育だったと主張したばかりか、そこで結愛ちゃんと血のつながっていないことを示され、余計に父親として自分が家庭を変えていかなければという思いを勝手に膨らませる。

 2017年の秋頃から、雄大は香川県を離れて東京へ引っ越すために行動をはじめる。以前から田舎での生活に息苦しさを感じて東京へ出たいと話していた上、児童相談所の介入によって近隣住民から白い目で見られたことで、引っ越しを決意したのだ。

 この年の12月、雄大は最初に1人で東京へ生き、優里は結愛ちゃんと長男をつれて1カ月遅れて東京へ行くことになる。もし優里にDVや虐待の自覚があれば、この時点で逃げ出していただろう。だが、優里はそれをせず、自ら東京へと引っ越した。公判では、優里が逃げられなかった理由をDVの支配下にあったことが一因とされているが、2人の共通の友人の実感は異なる。友人は語る。

「優里は雄大から説教を受けていた時期も雄大が大好きでした。支配されるとかそういうんじゃなかった。うちの実家に遊びに来た時も雄大のことを本当に尊敬して、3歩下がってついていく雰囲気でした。好きだって言ってましたしね。優里はあまりに大きな恋愛感情を抱くあまり、雄大の言葉を全部鵜呑みにしてしまって、結果として言いなりになってしまったということじゃないでしょうか。東京へ行ったのも、好きな夫が東京で新しい生活をはじめるのだからついていきたいということだったと思います」

 公判でも優里は逮捕後までDV被害を自覚していなかったと語っていた。彼女にとって雄大はやはり自分を導いてくれる理想的な男性であり、愛情があったからこそ、雄大の説教を受け入れて「怒ってくれてありがとう」とLINEで送ったり、結愛ちゃんへの虐待を「教育」と受け止めて傍観したのだろう。

 雄大はそんな優里に「東京へ行けば、自分の友達がいて、芸能関係の仕事を紹介してもらえる」と語った。これも公判では明らかになっていないが、優里は肉親が逮捕されるなど地元での暮らしにあまり居心地の良さを感じていなかったそうだ。だからこそ、彼女は雄大の言葉を信じ、東京での生活に希望を抱き、結愛ちゃんと長男をつれて上京したのである。

 2018年の1月から、東京の目黒区で船戸家4人の新生活がはじまる。だが、それが凄惨な虐待の幕開けだった。

 裁判では、雄大が1カ月遅れてやってきた優里たちを見て「俺が見てない間にしつけを怠った」と考えて、虐待をはじめたとされている。だが、原因はこれだけではない。裁判では明らかにならなかった、ある誤算が雄大を精神的に追いつめていたのである。

 東京での暮らしをはじめるに際して、雄大と優里が頼りにしていたのが、「東京の友達」だ。雄大は以前東京に住んでいた時にダイニングバーに通っており、そこで知り合った友人と親しくしていた。雄大は、その人物から「自分は芸能事務所とつながっている。仕事は紹介できる」と言われており、それを当てにしてわざわざ店の近くにマンションを借りて暮らしていたのだ。

 だが、この人物の話は口先だけで、芸能関係の仕事を紹介してもらえなかった。雄大は就職の当てを失い、はしごを外されたようになった。無職の状態で妻子を養わなければならなくなったのだ。

 高校時代からの友人は語る。

「雄大は東京に来てから事件までの2カ月ずっと無職でしたが、友達とは普通に会って遊んでました。俺とだけでも競馬に行ったり、バスケのゲームを観に行ったり、飲みに行ったりしてた。
 とはいっても、雄大は金づかいが荒いタイプじゃありません。むしろ牛丼を食べてから合コンへ行くくらいの節約家です。彼が金がないのに遊びに付き合ったのは、プライドもあったんじゃないですかね。プライドが高いから金がないとは絶対に言えない。だから普通に金のあるふりをして付き合っていた。俺もそれをわかっていたから金のことは訊くに訊けませんでした」

 雄大は自尊心の高さゆえに、お金のことを相談したり、仕事の紹介を頼んだりすることができなかった。だが、その間も貯金はどんどん減り、4月には結愛ちゃんの小学校の入学式が待っていた。

 1月から2月にかけて雄大は毎日マンションに閉じこもってパソコンで転職先を探していた。その焦りは相当なもので、1歳の息子がパソコンを触らないように毎朝優里に息子をつれて外出するように命じている。これによって、彼は結愛ちゃんとマンションで2人きりになり、職探しがうまくいかないいら立ちも相まって虐待を加速させていくのである。

 一家を良く知る友人は言う。

「雄大は母親から結婚を反対されたり、児相から養子だと言われたりして結愛ちゃんを1人前にしようとしていた。でも、結愛ちゃんからすれば、いきなりお父さんになった義父ですよね。厳しくされたことで、『お父さんが嫌い』とか『施設にいたい』というのは当たり前。雄大はそれを見て余計に『もっとちゃんと育てなきゃ』と考えたんだろうし、さらに無職で生活が立ちいかなくなったいら立ちから暴力をエスカレートさせていった。仕事のこともあったし、最後の方はもう自分でもわけがわからなくなっていたんじゃないですかね」

 雄大が虐待の最中も結愛ちゃんを小学校へ入学させるために高価なランドセルを自分で選んで買っていることからも、虐待死が意図したものではなかった可能性は高い。雄大自身も語っていたように「自分でどうしていいかわらからなかった」という状態に陥って、暴力がエスカレートしていったのだろう。

ドラッグの使用発覚を恐れて

 東京で1家4人の暮らしがスタートして約1カ月後の3月2日に結愛ちゃんは栄養失調が原因の敗血症が原因で命を落とす。その少し前から結愛ちゃんが腹痛を訴えたり、嘔吐をくり返したりしたが、2人はネットで調べて経口補水液、ブドウ糖の飴、バナナを与えるだけの自宅療養をつづけたため最悪の事態に発展したのだ。

 公判で議論になったのは、雄大と優里はなぜ衰弱した結愛ちゃんを病院へ連れていかなかったのかという点だ。雄大も優里も、その理由を「死ぬほど衰弱しているとは思わなかった」「体のアザで虐待発覚を恐れた」などと語ったが、これはあまりに非現実的だ。

 2月の下旬、結愛ちゃんの体重は12キロ台にまで落ち、肌の色は土気色に変色し、足の先から顔まで骨と皮だけの姿になっていた。雄大がいくら混乱状態にあったとしても、優里がいくらDVを恐れていたとしても、まったく気づかないわけがない。そもそも、結愛ちゃんは死の5日前くらいから食べ物を与えても吐いて受け付けず、命の危険は明らかだった。

 先述したように、雄大も優里も結愛ちゃんが死ぬことは望んでいなかった。それでも2人が結愛ちゃんを病院に連れて行かなかったのは、ドラッグの問題が絡んでいたと考えられる。

 事件後、雄大は大麻2・4グラムの所持で逮捕起訴されている(同時に大麻使用のための粉砕機や秤も押収)。公判で雄大は東京での時代に購入したものであり、虐待とは無関係だと語っている。だが、大学時代の友人の話は異なる。

「雄大はドラッグを大学2、3年の頃からやってましたね。初めは大麻。社会人になってからは、危険ドラッグに手を出してました。家で俺ら友達がいても普通にやる感じで、注意しても聞き流された。それでなんか変な行動をするようになってました。いきなり友達の結婚式に来なかったりとか、そういうこともありました。ちょうど東京から北海道にもどる頃のことです」

 私の取材では、彼が香川にいた時も、結婚後に東京へ帰ってきてからも、ドラッグを使用していることが明らかになっている。それを踏まえれば、ある程度の常習性があったと考えられるだろう。また、優里の親族はドラッグ関係の事件で逮捕されているし、彼女自身も雄大の使用を知っていた。彼女がまったく知らなかったとは考えにくい。

 こうしたことからすれば、雄大が結愛ちゃんを病院へ連れて行かなかったのは、家宅捜索によって違法薬物の使用が見つかることを恐れていたという可能性は否めない。このように、両親が結愛ちゃんを死ぬまで自宅に閉じ込めていた背景には、虐待の発覚以外にも別の要因があると考えられるのである。

 この事件は全国的な注目を集めたにもかかわらず、公判で明らかになったのは雄大=暴力的な父親、優里=DVの被害者という単純な図式だった。メディアも検察側や弁護側が示した構図をそのまま報じていた。

 だが、調査報道(独自に取材・調査し、報道すること)を行えば、雄大と優里が複雑な事情を抱え、様々な問題が雪だるま式に膨れ上がり、事件へ至った経緯がわかってくる。むろん、だから雄大や優里に同情しろと言うつもりは毛頭ない。雄大の懲役13年にせよ、優里の8年にせよ、軽すぎると考える人も少なくないだろう。

 とはいえ、単に加害者を批判したり、罰するだけでは再発防止にはつながらない。今後のことを考えれば、公判で分かりやすいように描かれたストーリーを鵜呑みにするのではなく、彼らがどんな問題を抱えており、なぜそれを取り除くことができなかったのかを読み解いて対策を打っていく必要がある。

 私はかつて拙著『「鬼畜」の家-わが子を殺す親たち―』(新潮文庫)において、虐待死事件を起こした親を取材し、考察を深めたことがある。今回の事件についても概要を一冊にまとめるなどしたいと思っている。それがこの事件にかかわった人間の役割であり、結愛ちゃんが生きたことを書き残す意味だと考えるからだ。

石井光太(いしい・こうた)
1977(昭和52)年、東京生まれ。著書に『物乞う仏陀』『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』『絶対貧困―世界リアル貧困学講義』『レンタルチャイルド―神に弄ばれる貧しき子供たち』『ルポ 餓死現場で生きる』『遺体: 震災、津波の果てに』『蛍の森』『浮浪児1945- : 戦争が生んだ子供たち』『「鬼畜」の家―わが子を殺す親たち―』『43回の殺意 川崎中1男子生徒殺害事件の深層』『虐待された少年はなぜ、事件を起こしたのか』などがある。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年10月15日掲載

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