【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(4)青森・相馬町の浜から 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ
本州最果ての海、陸奥湾には冬と春の境の鉛色の雲が垂れ込めていた。
今年4月上旬、JR青森駅から東に2キロ余りの堤川を越えた海べりを歩いた。青森市港町地区。魚介の缶詰、焼き竹輪などの水産加工場、問屋、造船所、町工場、倉庫が並び、住宅街と同居する一角だ。古い町名を相馬町という。海岸は青森漁港のコンクリートの岸壁で埋められ、東端は地元の海水浴場、合浦公園の長い砂浜と緑の松林に続く。啄木の歌碑も立つ、この景色だけは昔から変わらない。
相馬町の面影を探し歩くうち、殺風景な道路沿いに残る大きな石碑と、古い観音堂を見つけた。石碑は1921(大正10)年12月、開町30周年を記念して建立されたとあり、碑文にこんな記録が刻まれる(原文は漢字)。
〈弘前藩士相馬駿と漁業総代柳谷亀太郎が、青森湾頭の未開の土地に着目し、漁民の移住を構想して県知事に開拓の事業を願い出た。5年後の明治25年、移住者はわずか6戸だったが、地元有力者らの賛助を受けて、その3年後に新しい町の区画は出来上がり、(相馬駿の功労から)相馬町と命名された。開拓は順調に成就して人口も340戸余りに増え、一つの街としてにぎやかに栄え、人々は安心して楽しく仕事をしている〉
1991(平成3)年刊行の記念誌『相馬町百年の歩み』(相馬町百周年協賛会発行)によると、移住者たちは漁業を生業としてイワシ、サバ、タラなどを捕った。大漁続きだったというイワシの締粕(肥料)、焼き干しへの加工も盛んになり、業者も移住して工場を建てた。明治末には青森で最初のオイルサーディンの缶詰工場も開業。相馬町は水産加工の街に発展した。
「オンジ町」。相馬町はこうも呼ばれた。オンジとは、当時の家長制度の下で一生下男働きをするほかなかった農漁村の次男三男の悲惨な境遇を意味し、こうした人々が自由な新開地で人生を巻き直そう、自立し一旗揚げようと移り住んだ。
この連載の主人公、後の陸軍歩兵中尉対馬勝雄(1936年の「二・二六事件」に参加し刑死)と妹波多江たまさん(今年6月、104歳で死去)らの父、対馬嘉七さんもそんな1人だった。
津軽の村に始まる一家
『邦刀遺文』を連載1回目で紹介した。対馬中尉の二・二六事件までの半生を、日記や手紙などの遺品、妹らの手記などから記録した自費出版の本=1991(平成3)年刊行=だ。そこに収めた手記のため、たまさんは幼少時からの記憶を多くの大学ノート類に書き残した。刊行の8年後に出会った筆者の取材、それ以来いただいた70通以上の手紙とともに、語り言葉そのままにつづられた克明な記憶のノートの証言をひもとき、兄妹と家族の物語を青森の浜からよみがえらせていきたい。
たまさんは一家の歴史について、次のように筆を起こした。始まりから波乱万丈だ。
〈兄(対馬中尉)は明治41(1908)年11月15日、青森県南津軽郡田舎館村垂柳の貧しい農家で生まれました。父はこの農家の次男で、日露戦争(1904~05年)から帰って母(なみさん)と家庭を持ちました。兄が幼い頃、父は分家して青森市に移りました。父は出征して軍曹になって、勲章とともに金300円を授かったので、それを元手に慣れない魚屋の店を開きましたが、青森の大火に遭い丸裸になり文無しになってしまいました。それから我が家の貧乏が始まりました。途方に暮れながらも、父は陸奥湾の(相馬町の)海辺のすぐ近くに、物置小屋のような、ひどい平屋のバラックを建てました〉
田舎館村は、青森県西部に広がる津軽平野の真ん中にあり、たまさんが戦後に暮らした弘前から、私鉄の弘南鉄道に揺られて岩木山を眺めつつ行く。津軽の代名詞であるリンゴの畑よりも、広がるのはのどかな水田風景だ。
垂柳地区には弥生時代中期の水田遺構「垂柳遺跡」があり、稲作文化の北限の1つとして知られる。「田舎」の地名は鎌倉時代の文献にあり、もともとの字は稲作の歴史に発する「稲家」だともいう。館は小さな城を意味する。
嘉七さんは同村垂柳の農家、対馬浅次郎の次男として1879(明治12)年に生まれた。
〈垂柳の対馬家は、かやぶき屋根の津軽の典型的な百姓家屋の百姓であったが、家筋はまことに古く、先祖がわからないよう程である〉
という記述が村の郷土史研究書『館城文化第12集』(1975年)にある。貧しいのが当たり前といえた小作農家の1家族だった。
10歳下の妻なみさんは、同村八反田の比較的裕福な農家、阿保(あぼ)家の9人きょうだいの次女。祖母は武家屋敷に奉公した人で威厳があった。
「祖母の家には大きな長持ちがあり、水色の金糸の模様が入った裲襠(うちかけ)や刀、裃、紋のついた一の膳、二の膳、大名が使うようなお椀も入っていた」
と、生前のたまさんは語った。
両家の家柄の違い、「オンジ」の1人という嘉七さんの立場を乗り越えて2人が結婚したのは、
「日露戦争で父が勲章をもらって英雄のように村に帰り、その評判もあって『嫁にやりたい』という話が持ち上がったのだと思う」
日露戦争からの帰還兵
旧相馬町の取材の後、弘前経由で訪ねた田舎館村。天候回服でようやく暖かな日差しが注ぎ、厳しい冬の名残の雪解け水が水田をまぶしく光らせていた。
垂柳の集落の外れに、神明宮という小さな神社がある。昔、奥羽の蝦夷と戦った坂上田村麻呂が軍旗を立てた地との縁起がある戦の守り神で、社殿には日清、日露戦争で出征した地元兵士の絵馬が掲げられていたという。
大イチョウが枝を広げる境内に、1907(明治40)年建立の高い石碑がある。「皇軍全勝」という字が読め、凱旋記念の奉納碑だろうか、日露戦争の地元の出征兵士5人の栄誉が刻まれている。その中に「陸軍歩兵一等卒 勲八等 對馬永吉」と、嘉七さんの兄の名もある。
碑からしのばれる村の慶賀ムードとは裏腹に、嘉七さんら兄弟がいた弘前の歩兵第三十一連隊は、旧満州の戦場で凄絶な体験を強いられた。
嘉七さんの古い軍隊手帳の記載によれば、1903(明治36)年9月3日に弘前を出発して10月8日に大連湾に上陸。各地の守備、前哨の任務に当たった後、1905年1月25~29日に黒溝台の大激戦に投じられ、2月28~3月10日には、大山巌総司令官が「本作戦は、今戦役の関が原とならん」と号令した総力決戦の奉天会戦に参加した。
その3年前の「八甲田雪中行軍事件」から奇跡の生還をした第三十一連隊の福島泰蔵大尉(映画『八甲田山』で高倉健さんが演じた)らも黒溝台で戦死し、『郷土兵団物語』(岩手日報社)の記録では、同連隊の黒溝台での戦死は345人、負傷は1084人、不明56人に上った。奉天会戦では連隊長以下の指揮官にも死傷が相次ぎ、無事だった兵はわずか200余人。軍旗も敵砲弾で燃え、飾りの房のみの姿になった。
嘉七さんは1899(明治32)年に徴兵されて以来の長い軍隊生活の末、奉天会戦で戦傷を負いながら生還し、帰還後の入院を経て、終戦の翌1906年5月にようやく招集解除されて帰郷した。戦功により勲七等青色桐葉章と功労金300円(現在の価値で約90万円)を授与された。たまさんが大事に保管していた嘉七さんの遺品には、「競點射撃優等之證」という賞状がたくさんある。連隊きっての射撃の名手だったといい、日露戦争から生還した理由、戦功を賞され郷里で英雄となった理由もそこにあった。そうして撃ち続けた戦場の硝煙の中で、敵味方のおびただしい死を見た。
「父は、戦友がほとんど亡くなった部隊の生き残りで、『他の部隊に編入されたので勲章が少なかった』と話してくれたこともありました。その体験の悲惨さからか、戦争の話をしてくれたことがなく、1人になると大酒を飲むのが常だった」
と、たまさんは筆者に語った。
嘉七さんは戦争から帰った翌年の1907(明治40)年になみさんと結婚し、それをきっかけに2年後、父浅次郎の実家から分家をし、幼少の勝雄を連れて青森市に移住する。分家届けに記載された職業は「日雇い」だった。たまさんが記したように、わが命を賭した功労金300円を元手に同市蜆貝町に魚屋を開業。自らの店と所帯を構え、独立して商売を始めようとの希望に満ちていた。ところが、不運にも1910(明治43)年5月3日の青森大火が、その夢をあっけなく灰にしてしまう。
大火で消えた新生活の夢
〈全市一朝にして焦土と化し、隣保郷党の死傷する者算を乱して街頭に横たはるが如きは、蓋人生惨事中の最悲惨事なりとす。明治四十三年五月三日の青森大火は實に開市以来未曾有の災禍にして僅々数刻の間、戸数七千五百有余を烏有に帰し、無残の死傷者二百余名、之が物質的の損害額金約七百五十万円を越えたり〉(『青森市火災誌』より)
午後1時少し前、海沿いの中心部、安方町の菓子屋が饅頭を蒸していたという。その煙突から出た火の粉が強い西風にあおられ、隣家の屋根から屋根へあっという間に燃え広がった。嘉七さんが店と自宅を建てた蜆貝町は、ちょうど風下に位置して延焼が激しく、町内にあった659戸がすべて焼けた。
避難先となったのが相馬町の浜辺。急ごしらえで造った家は「物置小屋のような、ひどい平屋のバラック」だったと、たまさんは遠い記憶を記した。そこは陸奥湾からの風が強く、ひどい日には夜通し家中の戸や窓をがたがたと鳴らして吹き込み、石を載せただけの粗末な柾屋根からにぎやかに雨漏りがした。冬の朝にはバラックの隙間からよく雪が吹きだまった。寝室には天井板もなく、方々の穴をわら束で塞いでいた。そんな過酷な現実から一家は歩み出したが、大火の翌年に長女タケさん(故人)が生まれ、若い夫婦には落胆している暇もなかった。
「父は店を出すのを諦め、魚を売り歩くことになりました。農家出の父には魚が売れず、どっさり残して帰って、母を落胆させました。行商は父の性に合わず、今度は近所の人たちと函館方面に出稼ぎに行きました。でも、酒を飲む父にはほとんどお金にはならず、それもじきにやめてしまった」
日雇いで稼ぐほかなくなった嘉七さんに生計を頼れず、母のなみさんが子どもたちに留守番をさせて、魚問屋で家政婦のような仕事を始めた。器用な上に働き者のなみさんは、すぐに問屋の奥様の信用を得て、近所の問屋や加工工場の奥様たちにも知己を広げた。
たまさんが生まれたのは1915(大正4)年4月。その2年後には末の妹きみさん(故人)も生まれた。子沢山の貧乏所帯を支えたものは、なみさんの明るさであったという。
「八反田の祖母は質素でものを大切にし、漁師やお百姓が苦労して届ける魚、コメの尊さを食卓で教えた。そんな祖母に育てられた母は我慢強く、お金のないことを一言も子どもたちに言わず、父の大酒のみのことも愚痴らず、涙を見せたこともなかった。子ども心にも立派に見えました」
日々伝えられたのが、生かされることへの感謝。
「いつも朝3時から4時に置き、朝日が昇り始めると外に出て柏手を打って、『ほら、天女が空に昇っていくよ』と言って私たちを起こした。目をこすりこすり、雲の合間から昇る朝日を見て、その美しい輝きにびっくりして目を覚ますのでした」
「母は年中行事も必ずやりました。お正月には臼で餅をついて1人1人のお膳を作り、仏様にも供えた。春3月3日には、お雛様がないのに赤飯を炊いて、5月5日には兄のために大きな鯉のぼりを揚げ、尾頭付きのお膳を作った。軒下に菖蒲とヨモギを差し、風呂がないので桶の菖蒲湯で体を洗ってくれて、ざらめを入れたおいしい笹餅を作った。十五夜には、ススキや枝栗や花を活け、ブドウやサツマイモや枝豆、団子をお月様に供えた。そしていつも、きょうだいに1つ1つ公平に分けた。そんな母の思いが、私たちに貧乏を忘れさせ、どんなに幸せに暮らさせてくれたか」
貧しき町の期待の秀才
相馬町に対馬家が根付いた当時、開祖であり初代町会長の相馬駿は、
「真っ白い長いひげのおじいちゃんでした。とても優しい人で、思いやりがあり、町内の大人から子どもにまで尊敬されていました」
と、たまさんは回想している。
久左衛門を名乗った津軽藩士から廃藩置県後、青森県巡査となって県下を歩き、職務勉励抜群として表彰された。旧青森町役場に転じて、現在の納税組合制度を設け、地元の有力者や住職に図って寄付金を募り貧しい人々に歳暮やお金、コメを配る福祉事業を興した。住民が投棄する生ごみを収集する仕組みをつくり、肥料業者と組んで貧困層の仕事を創出し、町の環境衛生も改善した。
青森市制施行の運動にも尽力し、退職後は相馬町の新天地開拓とともに、地元漁業者のために青森漁協を設立(初代組合長)。その希望となる樺太の漁場開発の先頭に立った。今に残る観音堂も、相馬老が住民の和合と町の鎮守、大漁を願って、東京・浅草で買い求めた「聖観世音菩薩」を本尊とし建立された。
先見の明と開拓者精神、貧しい庶民への温かな目線を併せ持つ大人物であった。
町内の子どもたちは正月に相馬老の家で書初めをし、七夕には願い事の色紙を作り、帰りにお菓子の袋をもらった。通りで相馬老の姿を見かけると、「おじいーちゃ」と叫んで走り寄り、にこにこした相馬老の両袖にすがりついたという。
「何日も風呂に入れない垢だらけの子、髪をもじゃもじゃにした子、鼻水で袖口を光らせた子。そんな子どもたちを『町の宝だ』とかわいがり、大人たちには行き逢うたび、暮らしの様子を尋ねて相談に乗っていました」
「中でも兄はことのほか目を掛けられ、おじいちゃんは兄の将来に期待していました」
と、たまさんは、追憶の相馬町に生き続ける兄・勝雄の少年時代を語った。
父の反対を押し切って進学
工場や倉庫、住宅が立て込んだ現在の港町地区から想像することが難しいほど、そのころの相馬町は家がまばらで、原生花園のようにハマナスの野原や湿地、沼も広がっていた。対馬家の兄妹は夏には浴衣でホタルを取りに行き、朝早くからきれいな貝を拾い、函館山が見える浜に近所の子どもたちと集まって遊んだ。兵隊ごっこ、かくれんぼ、駆けっこ、浜で磁石を手にした砂鉄取り、雪合戦、かまくら作り……。勝雄少年はいつもリーダーだった。
たまさんが生まれた1915年の春から、勝雄は家から30分ほどの青森県師範学校附属尋常小学校に通っていた。成績はずば抜けて良く、3年から終業式の度、校長から「右者学業操行(運動)優等二付 茲二之ヲ賞ス」と壇上に呼ばれた。たまさんが保管していた当時の通信簿は、「修身」をはじめほぼ全教科が10段階評価の「10」。卒業式でも総代に選ばれ、褒章の国漢文辞書を贈られた。
「兄は本が大好きな勉強家だった。でも両親の苦労を見て、新しい本が欲しくても、一度も買ってほしいとねだったことはなかった」
と、たまさんは振り返った。
時代が大正に移ったこのころ、欧州での第1次世界大戦(1914~18年)が日本に一時の好況をもたらしたが、1918(大正7)年には富山県魚津町に発した米騒動が全国を揺るがし、青森にも波及した。対馬家の暮らしも一向に楽にならず、嘉七さんは自慢のはずの一人息子の卒業を待って、すぐさま働かせようとした。
「兄は、青森中学(旧制・現県立青森高校)への進学を必死に父に訴え、担任の先生も一緒に頼んでくれた。仕方なく父は、『試験に落第したら、家の手伝いをする』という条件で渋々受験を許した。すると兄は見事に合格。父はなおも渋ったけれど、最後は母が、兄の願いを叶えてと説得しました」
父の大酒、母の苦労
たまさんは『邦刀遺文』刊行後、大切に保管してきた対馬中尉の多くの遺品を、陸上自衛隊弘前駐屯地にある旧第八師団(第三十一連隊も所属)の資料展示施設に寄贈した。日露戦争の時代に嘉七さんが被った、黒地に金の徽章と金糸のライン、五芒星が刺しゅうされた正装の帽子もガラスケースにある。戦場で着用した軍帽や軍服があったはずだが、それはずっと昔、青森中学に入った勝雄の制服に直されたという。
「母が軍服を手縫いで作り直したのです。黒ズボンの脇にあった太い赤線を取り外し、軍帽は自分で染めた。兄の進学で、教科書を含めて家計の負担が増し、母も苦心しました」
と、たまさんは生前語った。
ところが、黄色い帯のある帽子が中途半端にしか染まらなかったので、「変な帽子だ」と級友たちに笑われた。担任からも訳を問われた勝雄は、「日露戦争に出征した父の帽子です」と胸を張って堂々と答え、逆にほめられるようになった。
ある日、勝雄は級友たちとともに担任に引率され、相馬町の隣町の橋を通りかかったという。その時ちょうど、川舟に乗って川砂利採取の作業をしていた嘉七さんを勝雄が見つけ、「オドー」と列の中から大きな声で呼んだ。「恥ずかしいから、黙って通ればいいのに」と級友の1人から言われた。
家に帰った勝雄は、妹たちを座らせてその出来事を語り、「どんな仕事をしようと、貧乏は決して恥ではないんだ」と言い聞かせた。
「兄は父を誇りに思っていて、終生変わらなかった。その言葉のおかげで、私たちは励まされ、卑屈になることなく過ごせた」
と、生前のたまさんは、その兄への誇りをいつも口にした。
嘉七さんは、なみさん同様の働き様で「働き出すと人の3倍も働く」と言われ、あらゆる日雇いの仕事をし、なみさんが勤める魚問屋の近くの蒲鉾屋で働くようになった。しかし、毎晩の大酒に加えて、底抜けの義侠心が貧乏暮らしを終わらせなかった。
「父は困っている人への同情心が厚く、近所の人が『今晩食う米がない』と困っていれば、家の米櫃を空にしてでもくれてやった。人の借金の保証人になってお金を借りてやり、その挙げ句に夜逃げされて、母が後始末に振り回された。何度だまされたことか分からない。母は真夏にも氷水の屋台を引いて、年中暇なしに働くしかなかった」
たまさんの娘、波多江多美江さん(71)=弘前市=は30年ほど前、 たまさんがこんな話をこぼすのを初めて聞いた。
嘉七さんは大酒で酔うと、ちゃぶ台をひっくり返して暴れることがあった。いつも明るいなみさんも時に、耐えきれず錯乱状態になったという。
「ある晩、母は幼い私たちの手を引き、背中におんぶし、橋の上から川をじっと見ていたことがあった。私は怖くなって、母の手を強く引っ張った。もしかすると、母はふと死を考えたのではなかったか」
子ども心に焼きついた、しかし、思い出すことも語ることもつらい光景だったのだろう。
勝雄はそのころ、相馬町の同級生や年下の男の子たちと「少年団」を結成していた。浜に蓆(むしろ)の小屋を立て、旗代わりの木彫りの魚拓を入口に掲げ、水泳ぎや兵隊ごっこをし、魚を焼いて食べ、イソップのとんち話を面白おかしく読んでくれたという。そんな楽しく優しい兄が1人きりでいた時の横顔も、たまさんは忘れていなかった。
「家にお客さんがあった日、裏の畑にミカン箱を持っていって、腰かけて勉強していた。海を眺めて、波音に耳を傾けているような日もあった。いったい何を考えていたのか、そのころは分からなかった」
(この項つづく)