ついに復活「陸前高田ジャズ喫茶」不屈のマスター「苦闘8年半」
「h.IMAGINE(イマジン)」
岩手県陸前高田市にあったジャズ喫茶だ。2011年3月11日の津波で跡形なく流され、主人の冨山勝敏さん(78)がそれから8年半を待ちながら、再建への模索と挑戦を重ねた。そして、ついに今9月27日にお披露目のはこびとなり、来10月1日には復活オープンを迎える。
昨年12月25日の拙稿『「陸前高田」で4度目の奇跡「名物ジャズ喫茶主」の夢と希望と笑顔(上)(下)』で紹介したマスター奮闘記のその後を報告する。
待ち続けた完成
陸前高田を訪ねたのは今月5日。壊滅した街の跡に10メートル以上のかさ上げ(土盛り工事)がされた人工地盤の土色の風景に、ようやく新しい街が生まれてきた。
2017年春に開業した中核商業施設「アバッセたかだ」の周辺に、飲食業などの小さな店が次々に軒を連ね、昼にはささやかなにぎわいも戻っている。だが、膨大な土砂と同様の時間を要した復興土地区画整理事業を避難先の住民が待てず、2018年の市の調査では、かさ上げ用地53.8ヘクタールのうち、商業地や住宅地などで利用予定のない土地が3分の2にも上った。東北の被災地に広がる「空き地問題」がここでも深刻で、復興という言葉にはいまだ遠い。
アバッセたかだの裏手にある本丸公園(旧高田城跡)の森の裾にも、新しい店の普請現場が連なっている。
その中に、目を引くチョコレート色の2階建ての店が姿を現した。入り口の白い看板は、見覚えのある赤い文字の「jazz caffe saloon h.IMAGINE」。市内の仮設住宅の居室前に長らく置かれていた看板の前に、冨山さんが感慨深い表情で立った。
「店は内装もほぼ終わり、あとは建築確認と喫茶店の営業許可を残すだけ。心境を問われれば、『ああ、ここまで来たか、ずいぶん待たされた』かな。仮設暮らしの間に、後期高齢者の有資格者通知をもらい、被災ぶりに会った女性の知人から『マスター、黒かった髪が真っ白だわ』と言われたよ」
その分、設計やデザインにも時間と愛情が注がれた。1階フロア(約50平方メートル)はシックな黒と温かなオレンジを基調に、フロアにサーモンピンクの革張りソファの12席、カウンターには5席。隣の大船渡市の楽器店が預かってくれたJBLの大型スピーカーもどんと据えられ、ジャズを奏でるべき店に帰ってきた。仮設住宅に置いていたアンプ類、すべてを流されてから全国のジャズファンが復活を願って寄せたレコード、CDも。
「選りすぐりの名盤1000枚がスタンバイしている」
と冨山さんは満足そうだ。
円熟味ある女性歌手のような風格で、ヤマハのグランドピアノも据えられた。やはり震災にまつわる物語がある。津波で被災した大船渡小の体育館で長年使われたピアノで、引き取って修理した楽器店社長から冨山さんに、「まだまだいい音を鳴らせる。もらってくれないか」と託された品だ。大船渡にある被災者の集会施設「居場所ハウス」で歌の伴奏に弾いてもらっていたといい、冨山さんにとっては戦友との再会のようだった。
自然彩光で明るい店内は、ピアノと大スピーカーの真上が吹き抜け、2階はゆったりしたリスニングと瞑想の空間。冨山さんは「フリースペース としても貸し出し、イベントでも、お花やヨガの教室でも、地元の集いに利用してほしい」と言う。そして、何よりも歓迎するのがジャズをはじめとする「ライブ」。生きた音楽で陸前高田に人を呼び戻したい、という願いから、「無償で自由なライブの場を提供したい。頑張って街に留まった人も、これから街を訪れる人も音楽の楽しみでつながれる。そんな交流を盛んにしたいんだ。いままで縁のできた全国のミュージシャンに、ライブの企画をいつでも歓迎と呼び掛けるよ」
「復活」への新たな人生
〈津波の色は、黒に限りなく近い灰色。木造の古い家々を「バキバキ」と枯れ枝を折るような音とともにのみこみ、煙のような土ぼこりを巻き上げていた。大量のがれきを押し流しながら、足元の高台のすぐ下まで達した。「人の乗った車も、逃げ遅れた年寄りも、流されるのを見ているよりほかなかった」。自分の店がどうなったのかは、山の陰に隠れて分からなかったが、「やがて引き波で、見覚えのある大きな赤い屋根が流されていくのが見えた。頭は真空状態だった」〉
2011年3月11日の津波が「h.IMAGINE」を奪い去った瞬間だ(昨年12月25日の記事より)。
冨山さんの半生は波乱万丈だった。福島県郡山市の商業高校を卒業して東京に出た元「金の卵」。最初の会社がつぶれて「フーテン生活をした」というが、1964年の東京オリンピックを迎えるホテル進出ラッシュの時代、簿記のできる人材を募集していた「東京プリンスホテル」から「あしたから来い」と採用に。そのころ、「兄が『ウェストサイド・ストーリー』の音楽を聴かせてくれて新鮮さにびっくりしたり、オスカー・ピーターソン(ピアニスト)のレコードを持ってきてくれたり。ジャズが好きになり、自分でも集め始めた」。
ホテルの会計システム責任者を務め、第2の人生でもホテルの世界の仕事を重ねたが、「辞めたら何をしようと自問した時、できるのは喫茶店くらいかと思った。集めたジャズのレコードも700枚くらいあったし」
新しい人生の地を風光明媚な三陸と決め、単身、大船渡に移り住んだのは2003年7月。初代「h.IMAGINE」の店作りは、「大工仕事もペンキ塗りも自分でやった」「客は1日平均6、7人。よほどの物好きしか来ない店だった」というが、女性を中心に常連客が増え、「地元の観光や地域興しにも知恵を貸して」と頼りにされる存在になった。が、2010年2月11日の深夜、突然の火事で灰となる。不審火だった。
失意を乗り超え、陸前高田に開いたのが2代目「h.IMAGINE」だ。お化け屋敷と呼ばれた築60年の廃庁舎を市から200万円で買って大改装。伝統職人「気仙大工」が手掛けた洋館建築を生かし、玄関や柱、外装を大胆な緑やピンクで染めた。同年12月22日に新装開店し、たちまち街の名所になったが、津波来襲はわずか3カ月足らず後だった。
筆者が冨山さんに避難所で出会って話を聴き、一緒に店の跡を見にいったのは3月18日。土台がむき出しの敷地に1枚、ジャズ喫茶の名残のレコードが落ちていた。拾って手渡すと、冨山さんは迷いもなく空に飛ばしてやり、きっぱりと「もう後ろは振り向かない」。
〈土台は大丈夫だ。これが私の元手。木材を集めて掘っ立て小屋を建て、そこからまた始める〉
〈東京にはなかった人の情が何よりの財産。みんな苦労の日々が続く。心を癒やしに集える場をつくるのが次の仕事だ〉
2011年4月1日の『河北新報』連載「ふんばる」で紹介した、当時69歳の冨山さんの言葉だ。陸前高田を終の住処と決め、「h.IMAGINE」復活を目指す人生の原点になった。
全国に配信された記事は反響を呼び、「レコードを寄贈したい」「ステレオのセットを使って」という申し出が相次いだ。仮設住宅に届いたレコード、CDは約5000枚。それを再起の糧に翌年3月11日、大船渡の友人が経営するブティックの一角で3代目となる店を出した。
それでも陸前高田の店への愛着は深く、寝泊りの場所もないボランティアたちの姿にも触れ、あえて3代目の店を閉じる決心をして2014年3月11日、跡地に自費でバンガロー村「レインボーサライ」を開設した。だが、復興土地区画整理のかさ上げ工事が日に日に迫り、翌2015年10月末にやむなくバンガロー村を撤去。「待つ時間」との闘いがさらに続いた。
資金不足をも乗り超え
「本当は今年の3月11日にオープンを考えていたんだ」
と冨山さん。造成を終えた新しい商業地区の一角の土地を昨年春、計画遅れの先延ばしの上、ようやく昨年春、市から引き渡しを受けた。できるだけ早い着工を念じて福島市の設計事務所に相談し、仮設住宅で店のデザインも温めていた。
ところが、「数年の間に地元の建築コストが2割も上がり、大工、水道工事、電気店、どこに持っていっても『この見積もりではできない』と断られた」
一度に500万円もの資金不足――。
それでも冨山さんは危機と考えなかった。
「被災者には、途中で疲れてやめてしまう人もいる。しかし、そんな時は運命と素直に受け入れて、新しい状況から考え、始めればいい。現役時代はいろんなプロジェクトを手掛け、想定外の事態なんていっぱいあった」
予算を削り、店の施設、設備を必要十分なところまで見直し、最後に残った不足分200万円を被災地支援のクラウドファンディングで募ることにした。
設計事務所も親身に駆け回り、盛岡市の滝田平さんという新進気鋭の大工の棟梁を紹介してくれた。
「センス豊かで自由な発想のアイデアマン。とてもウマが合った。いつも前向きに生きようとすれば、何かしらプラスの出来事、そして、良い人の縁に出会えるんだ」
ついに着工したのが今年5月半ば。
「現場で滝田さんと丁々発止のやり取りをしながら、内外装を決めていった。『色は全部、黒にしていいですか』と聞かれると、『全部はねえ。真っ赤を入れて』とか。その場その場で面白い提案をされ、ぴったりな色を作ってくれた。古民家の厚い部材とアクリル板を組み合わせ、見たことのない紫の照明入りのカウンターも『お祝いです』と作ってくれた。毎日がジャズのライブセッションのようだったよ」
想定外の事態は、冨山さん自身にも訪れた。8月中旬の夜、急に咳き込んで悪寒が止まらなくなり、救急車で大船渡の病院に運ばれたのだ。肺炎だった。工事現場だらけの周囲のほこりっぽい環境が影響したのか、「吸わなくていい空気を吸いませんでしたか」と若い医師から問われた。「不屈のマスターにも、8年半の疲れとストレスが出たのでは」と長年の知人たちから心配されたが、治療が始まると1週間もしないで肺炎はきれいに治ったという。 医師からは「回復が早い、体が若過ぎますよ」と驚かれた。
誰もがつながれる店を
「この店に来て、音楽を聴いて、おいしいコーヒーを飲んで、楽しいなと思ってもらえればいい。女性にも気軽に寄ってもらえるようなコーディネートができた」
4代目「h.IMAGINE」のオープンを間近にしたいま、冨山さんはこう語る。
とりわけ自慢のメニューはコーヒーだ。
「東京の一流ホテルにも負けないようにと吟味し、インドネシアの『マンデリントバコG1』という豆を選んだ。コクが深くて私の好みにぴったり。ストレートで味わってもらいます」
紅茶はドイツのロンネフェルト。3代目の店でも人気メニューだったお気に入りの銘柄だ。パスタやピラフ、夜にはお酒も興を加える。
ジャズ喫茶というイメージに固定観念やこだわりはないというが、震災後に届いた支援物資の中に、モダンジャズの巨人たちや50〜60年代米国風のポスターがたくさんあり、冨山さんはそれらをパネルにして復活の日のために飾り付けた。
カウンターの上には、ジャズ好きにおなじみの青いレコードジャケットがあった。ジャズボーカルの名盤『ヘレン・メリル ウィズ クリフォード・ブラウン』。このレコードの2曲目が『You’d be so nice to come home to』。「ニューヨークのため息」と謳われたメリルが「あなたが帰ってきてくれたら、うれしいわ」と甘く切なく歌う。
冨山さんが震災翌年に2代目の店をオープンさせた日、最初に針を下ろしたのがこの曲。お客さんへの、被災地の人々への、そして、わが「h.IMAGINE」へのメッセージだった。
「10月1日に店を開けての1曲目にはやはり、これを掛けようと決めているんだ」
冨山さんのお客さんへの心遣いはまだある。店の前にある本来の駐車スペースを「テント村」に開放し、「お金のないジャズ好きや、遠来のバイクツーリングの若者らにテントを貸し出し、泊まってもらいたいんだ。そして、陸前高田に滞在する人を増やしたい」。
テントの購入費は、岩手県が被災地支援事業で助成してくれる予定だ。かさ上げ工事で消えたバンガロー村「レインボーサライ」に掛けた夢も、また違った形でよみがえる。
仮設住宅で待つ日々で、実は冨山さんもサックス奏者の仲間入りをしている。復興応援NPOで地元に移り住んだ若い男性と仲良くなり、「この街には市民吹奏楽団がありませんね。私が立ち上げようとしているから、一緒にやりませんか」と誘われたのだ。
「仮設の退屈さもあり、練習を毎日やってきた。メンバーになった吹奏楽団の合同練習にも月1回通って、市のイベントや盆踊りなど5、6回参加してるよ。素人は私だけだが、もうレパートリーが5曲ある。音楽でつながることの楽しさを、あらためて知った」
そんな楽しさと人生の深さ、出会いの縁が1つになったジャズ喫茶が、もうすぐ復活する。
郷里の市長からの電話
〈火災、津波に負けず4度目の開店 不屈のジャズ喫茶27日復活 「まちにファン呼び込みたい」〉
今月14日、こんな見出しが『河北新報』社会面に載った。同紙を今春卒業した筆者ではなく、大船渡支局の後輩記者が富山さんに取材した記事だ。
震災直後から始まり、同紙だけで初報続報合わせ11本の「h.IMAGINE」の記事を筆者は書いてきた。それを後輩が引き継いでくれたこともまた、8年半の歳月の長さを物語る。
冨山さんにはその日、記事を読んだ郷里の郡山市の市長から電話があったそうだ。フェイスブックで楽しそうに報告した。
〈★2011.3.11「河北新報」第一報(全国メディアにも配信された)以来8年間、何度となく「その後のアイツは?」取材掲載いただき、今回久し振り目立つ記事掲載いただき感謝!「我ながら凝りもせずよくやるワイ!」です〉
〈★朝一番に福島県郡山市(我が生まれ故郷)品川(萬里)市長さんからお祝いの電話&郡山市に出戻りし活躍してほしいとお誘いも!(郡山市の後期高齢者対応予算増額迷惑掛かるので躊躇!)〉