天職をみつけた「紛争地の看護師」が挑む究極の「対症療法」
「国境なき医師団(MSF)」の看護師としてシリア、イエメン、イラクなど内戦による人道危機の現場に何度も足を踏み入れた白川優子氏(45)。自身の半生と戦地での経験をつづった『紛争地の看護師』(小学館)は大きな話題を呼び、発刊から1年を経てロングセラーとなっている。
どこにでもいる普通の高校生だった彼女が、なぜ幾度も危険な紛争地に向かう人生を選んだのか。混迷する中東情勢への思いや、看護師を「天職」と言い切る職業観、そして若者たちへのメッセージを語ってもらった。
「まさか紛争地に行くとは」
白川氏は2010年にMSFに参加して以降、8年のうちに17回も海外の医療支援活動に派遣されている。特に15年10月の2度目のイエメン入り以降はイラク、シリアと中東でも最も過酷な紛争地に「休みなし」と言ってもよいハイペースで入っている。
だが、意外なことに、MSFに参加した時点でも、自らが歴戦の「紛争地の看護師」となるとは想像していなかったという。現在MSFの日本拠点でリクルートを担当する白川氏はこう話す。
「今の採用をやってる立場の私なら、そのときの自分に『もっと現実を知りなさい!』って言いますね(笑)。 人道支援というと、アフリカの栄養失調児への援助 というのがぱっと浮かぶイメージでしょう。国境を乗り越えていく医療を提供する団体ということは分かっていたけれど、その先のイメージは思いうかべていなかった。どんなところに行くのだろう、どんなオファーが来るのだろう、とゼロの状態、まっさらな状態でした。まさか紛争地に行くとは思っていませんでしたから」
そんな白川氏は2012年9月から赴いたシリアで戦地の現実に直面する。すでに泥沼の内戦の入口にあったシリアでは医療システムが崩壊。MSFの人道支援を認めないアサド政権から攻撃のターゲットにされかねない状態での危険な任務だった。この前月には日本人ジャーナリスト、山本美香氏が北部アレッポで命を落としていた。
MSFの活動拠点は激戦地アレッポから数十キロ離れ、銃弾や空爆の音も届かない静かな村だった。だが、運ばれてくる患者たちには、戦争の爪痕がくっきりと刻まれていた。
〈頭から、腕から、お腹から、足から市民が血を流して苦しみ、うめきながら運ばれてくる。
空爆や砲撃などの爆発による被害者は、手足がもげていたり、色々な破片物が体に突き刺さっていたりした。普通に暮らしていただけの一般市民が信じられない姿となっていた〉(『紛争地の看護師』第三章 病院は戦場だった p97)
戦地をその目で見た経験は、白川氏の人生を大きく変えた。
「注目もされない、報道も少ない、援助も少ない、そういうなかで『こんな非人道的なことが世界で起きている』と知ってしまったわけですよね。『一度知ってしまったからには、行かなくてはいけない』という思いが後からわいてきました」
英語で「calling」と表現されるもの
「私はまず看護師なんです。天職だと思っている。看護師の自分が貢献できるなら、紛争地でもどこへでも行ける」
今はそう言い切る白川氏だが、実は「看護師になったきっかけは」という問いには、すっきりと答えられない。
著書では、7歳のころ、たまたま見たテレビ番組で「国境なき医師団」という文字を目にして憧れに似た思いを抱いた記憶を記している。だが、看護師への思いがどう培われていったのか、わからないという。
あるいは英語で「calling」と表現される天職とは本来、そういうものなのかもしれない。向こうから呼ばれれば、その人には「それ」とわかるのだ。
「ロールモデルがいないのは確かです。憧れを抱いた覚えもないし、どうして培われたかは分からない。でも、看護師というキーワードをどこかで拾っていれば、結びついていたと思う。たまたま高校の友達が言った看護師という言葉を聞いて、『そのキーワードが今まで頭になかったけど、それなんだ!』とパズルがはまったようでした。でも、その前や高校を卒業した後だったとしても、出会っていたら、同じような感覚になっていたはずです」
商業高校の3年生の夏を過ぎてから定時制看護学校への進学を選ぶという変則的なコースを経て、1996年から看護師として働き始めた白川氏。天職である看護の喜びと過酷さを感じながら経験を積み、「そろそろ一人前になったという自負」もできた1999年に、再び転機となる出来事が起きる。
〈そこに、少女時代の感情を呼び覚ます、ニュースを目にした。
「国境なき医師団、ノーベル平和賞受賞」
ハッとして体が熱くなった。体中の血液がせわしなく、動き出すのを感じた〉(『紛争地の看護師』第二章 看護師になる p71)
だが、幼い日の夢が呼び覚まされ、すぐにMSFの募集説明会に参加したものの、厳しい現実に直面する。言語の壁だ。MSFに参加するには英語もしくはフランス語の十分な語学力が求められる。著書のなかでも「この巨大な壁が目の前にドスンと現れた」と記している。
「20代のころって、20代前半で夢は叶えないとと思ってしまう。私は、夢って終わっちゃったと思う時期が長かったんです。看護師という天職に出会った後、『国境なき医師団』は夢として存在するようになりました。でも、手が届かない。活躍している人たちをホームページで見て、こういう人じゃないとできないのか、なんで私は留学しなかったんだろう、なんで私はバイリンガルじゃないんだろう、なんで私は帰国子女じゃないんだろうと自問しました」
英会話学校には通ってみたものの、それでMSFが求めるレベルに届く見込みはなかった。そんな夢を断念しかけた時期に、白川氏の背中を強く押した人がいた。
〈もうこれは諦めるしかないのだ、私は看護師の仕事が好きなのだからそれだけでも幸せなのだ、日本で看護師を続ければよいではないか……。
日々を悶々とした気持ちで過ごしていた私に、救世主が現れた。母だった。
「今諦めたって、この思いは10年先も続くわよ。だったら今行動を起こして思い切って留学しなさい」
母のこの言葉は、今から思えば本当にありがたかった。目の前に道が開けた思いだった〉(『紛争地の看護師』第二章 看護師になる p74)
「しっかりと準備をして足元を固め、自分の一番の人生のピークを40歳あたりに見なさい」
母の力強い助言を胸に、給料の良い病院に移籍して3年がかりで留学資金を貯めた。2003年、ついに白川氏は豪州に渡った。これがあと数カ月で30歳というときである。
渡豪後、語学学校を経て大学に入り、「日本の看護学校で勉強をサボってばかりいた自分が信じられないくらい」という猛勉強で2006年に看護師の資格を取得。最終的にはメルボルン最高峰のロイヤル・メルボルン病院に職を得た。永住権を持ち、収入は安定し、職場でもリーダーとしてやりがいのある仕事を任せられるようになってきた。
だが、著書で白川氏は「次第に心の中に虚無感が住み着くようになった」と振り返る。
そして7年の豪州滞在ののち、2010年春、豪州を去る決断をする。帰国した翌週には早々にMSFの面接を受ける。今回は自信を持っての応募だった。
〈事実その翌日には派遣登録の許可が下りた。
国境なき医師団看護師、白川優子。
30年前、7歳の幼い私が憧れた舞台についに上がった。
ようやく私の人生の本番がスタートした〉(『紛争地の看護師』第二章 看護師になる p83)
「治療しても、治療しても」
スリランカ、パキスタン、イエメンでの任務を経て、2012年9月から入ったシリアで、白川氏は初めて「戦場」を実体験する。前線から離れ、安全地帯と考えられていた村に置いたMSFの拠点が突然、爆撃機による空爆を 受けたのだ。どこの爆撃機かは地上からはわからない。ただ爆撃機を所有できる勢力がどこかを考えれば、おのずと答えはわかるものだ。
〈爆弾が本当に落ちてきた。私はとっさに手術室のワゴンに摑まり、下を向いて体を萎縮させた。ひどい地響きだった。心臓は破裂してしまいそうだった。
地響きが落ち着き、顔を上げた。体全体が心臓になってしまったかのように、大きな拍動が体中を波打っていた。
顔を上げた私が目にしたものは、表情一つ変えていない外科医と麻酔科医だった。何事もなかったかのように手術を続けている。
その時に私は思った。この人たちは爆弾ごときで撤退する気が微塵たりともないのだ〉(『紛争地の看護師』第四章 医療では戦争を止められない p126)
爆撃機は去り、幸い病院への直撃は免れて死傷者こそ出なかったものの、危険な状況には変わりはない。緊急性の高い患者の処置が終わると、白川氏を含むチームの一部は隣国に退避した。結局、白川氏はそのまま12年11月末に帰国の途に就いた。この時に芽生えたのが「ジャーナリストになりたい」という思いだった。
「腕や手を失い、骨が見え、内臓が見えて、という状態の人たちを収容して、頑張って治療しても、治療しても、また救急車がくる――。この繰り返しのなかで、私は医療を提供しに来たのだけど、これは本当に元を断たないと、この空爆を止めないと駄目だと思ったのです。治療をしていても聞こえてくる銃声や空爆の振動。これなんだ、これを止めなくちゃいけない。看護師として派遣されて来たのに、戦争を止めなくちゃという思いにシフトしてしまい、『対症療法』をしていることが、すごく苦しくなりました」
看護師という天職をなげうって「この惨状を知らせなければいけない」と思いつめるほど、戦場の惨状は衝撃的だった。
MSFの活動の中でも、紛争地での支援はもっとも「対症療法」の色が濃い。被災地などの天災による保険システムの機能不全や、医療アクセスが不足する貧困地域への支援には、ときに気の遠くなるような時間がかかるものの、復興や経済成長という「出口」が見え、事態が前に進んでいく手ごたえもある。
だが、シリアやイラク、イエメンなど内戦が激化した地域では、人が集まる病院自体が攻撃対象となりかねない。紛争という人災によって医療システムの土台自体が切り崩され、人道支援団体は終わりの見えない「対症療法」を強いられる。
結局、ジャーナリストへの転身は周囲のアドバイスもあって見送り、白川氏はわずか半年後の2013年6月に再びシリアに向かった。内戦は深刻化し、武装集団と難民が急増していた。『紛争地の看護師』の中で白川氏は、看護師としての使命を自覚しなおす、ある患者との感動的な出会いを綴っている。ここは本書の最良の場面の1つだ。
「世間に見放されている国」
多くの日本人にとって、紛争地の人道危機はどこか縁遠い世界の出来事のように感じられる。それでも、シリアやイラクの情勢は、地政学的な重要性や認知度の高さから、ニュースを目にする機会は少なくない。
そうした中東地域の主要国と対照的に、見捨てられたような状態にあるのが、イエメンだ。サウジアラビアなどスンニ派勢力が後押しする暫定政府とシーア派の盟主イランを後ろ盾とするフーシ派のほか、過激な武装勢力が入り乱れ、解決の糸口すら見えない泥沼の内戦がもう4年も続いている。
「イエメンがシリアより不幸なのは、同じくらいの人道危機が起きているのに、注目が集まっていない、つまりは援助も集まっていないということです。『国境なき医師団』の活動資金の順位はここ何年かで急上昇していて、シリアよりずっと上になっているのに。医師団からは何チームも派遣され、日本人も何人も送られています。
多くのイエメンの人々は貧しく、隣国に逃げる手段もありません。負傷した患者たちは、栄養失調を伴って運ばれてきます。まずは栄養失調をどうにかしないと傷も治らない。感染症も伴っている。今は収まっているが、一時はコレラも蔓延してしまいました」
白川氏は過去に4度、2015年の内戦勃発後だけで3度もイエメン入りしている。
2015年10月の派遣時には、他のチームが活動する最も前線に近い病院が空爆を受けた。幸い、死傷者は出なかったものの、わずか3週間前にもアフガニスタンでMSFの拠点が空爆されたばかりでもあり、白川氏にも日本のテレビ局から生中継の取材依頼が入った。
中継の前、チームリーダーのリカルド氏から「イエメンの惨状のすべてを日本中に伝えろ」「イエメンほど世間に見放されている国はない」と鼓舞された白川氏は、著書でこう振り返っている。
〈リカルドの言う通り、イエメンでは医療だけでなく、市民の生活を支える援助も絶対的に足りない。多くの援助機関が入ってくれなくては、せっかく医療支援をしていても、避難民たちに行き届かない。
私はリカルドのアドバイス通りのコメントをはっきりと伝えたが、どこまで海の向こうの視聴者に伝わっただろうか。
多くの人々が医療を求めているのに、一つの空爆が希望の灯を簡単に消してしまう。病院や医療者に攻撃を加えることはどんな理由であろうと、許してはならない。それでも世界はそれを繰り返している〉(『紛争地の看護師』第六章 現場復帰と失恋とp208~209)
イエメンに限らず、中東・アフリカの内戦には、当事者だけでなく、影響力拡大を狙う大国や周辺国の思惑と公式・非公式の介入が絡み合う。冷戦終結後に進んだ国際協調主義による紛争解決のメカニズムは、「米国第一」を掲げるトランプ政権の誕生がダメ押しとなり、今や機能不全に陥っている。
抑止力が失われる一方、欧米先進国やロシアの兵器産業が独裁者や強権的政府、武装勢力を「得意先」として紛争の火種を大きくするという、古くて新しい問題は深刻さを増している。
「患者さんの傷口からは色んなものが発見されます。ミサイルの破片には外国の文字とロットナンバーが入っていました。この国で作っているわけがない。戦争によるビジネスがある。銃を、武器を売りたい人がいる。使わせたい人がいる。戦争を起こさなければ、と思う人がいる。単純に『戦争は止めなくちゃいけない』と平和を訴えるだけでは太刀打ちできないようなシステムがあることがわかります。
それは強固なシステムかもしれないけれど、我々は戦争があって当たり前だという世界にはしたくありません。普通に生活をして、紛争に加担もしていなければ、領土的な野心もない人たちが血を流しているのを見ている以上、私は紛争地について多くの人に伝えなくてはいけないと決意しました」
「銃は絶対にとっちゃいけない」
現在、白川氏はMSFでリクルートを担当しつつ、講演やメディア出演などで情報発信を続けている。特に若い世代に向けた「戦争という道は絶対に選んではいけない」とのメッセージは、多くの子どもや若者の悲劇や、紛争地ですら希望を失わない人々の姿を実際に見てきた者にしか語れない力がある。
「紛争地では、子どもたちが学校に行けなくなるところから危機が始まっていました。学校が避難民のたまり場になり、多くの人が集まれば攻撃対象にもなる。そうすると、子どもたちは、学校に行きたいと泣くんです。『国境なき医師団』の活動を手伝ってくれる若者たちも、学校に行きたい、大学に戻りたい、と話してくれます。ですが、そうした若者たちが一瞬にして銃をもってしまう姿も見てきました。
戦争というのは本当に良くない、銃というものは絶対にとっちゃいけないものなんだよ、ということを伝えていきたいのです。もし世の中がそんな流れになったときには、洗脳されてしまうのではなく、この流れはおかしいと判断ができる人になってほしい。私はそこにアプローチできるのかな、と思っています。平和の価値を知ってほしい。私も紛争地に行ってみて、勉強ができるってそんなに奇跡的なことなんだと気づきました。それを伝えたい。空爆や戦争の心配がなく勉強ができるという環境の価値をとにかく味わって、たのしんで、謳歌してほしいと思っています」
「聖女」ではない等身大の人間
「今日はこのまま直帰なんですよ! どこに遊びに行こうかな」
猛暑日だった8月某日、取材後にランチをご一緒した白川さんは、料理に舌鼓を打ちつつ、嬉しそうな笑顔を浮かべた。歴戦の勇士とも言えるキャリアと、ふわりとした人柄とのギャップは、実際に会った人に意外な印象を与えるだろう。「紛争地の看護師」として修羅場をくぐった後でも、「制服が地元で1番かわいかった」という理由で高校を選んだような、「どこにでもいる普通の女性」の一面を持ち続けているのが分かる。
キャリアと「普通の人」という印象のギャップは、私にある人物を思い起こさせた。
5年ほど前にインタビューした、アウシュビッツの日本人ガイド、中谷剛さんだ。
「アウシュビッツのガイドだけで食べていける」という中谷さんは、「ビジネス通訳の仕事を意識的に続けている」と離してくれた。知人に、「現実の世界との接点を持ち続けないと、正義の騎士みたいな言葉だけ吐くようになる。それでは聴衆に言葉が届かなくなってしまう」と助言されたのを守っているのだという。
人道支援や国際貢献で活躍すると、聖人君子に祭り上げられるのが世の常だ。中谷さんは、世間から遊離してしまわないよう用心している、バランス感覚に優れた方だった。
そんなことを考えていたら、インタビューの数日後、白川さんのツイッターにこんな言葉が流れてきた。
〈「(略)白川さんはこうあるべきです、こういう人でなくてはいけません、こういう発言は避けてく下さい」と指示をする人が出現してきました。勝手な当て嵌め、押し付けをされてる訳ですが私は世間の操り人形ではない一人の人間ですのでよろしくお願いします〉
確かに白川さんの人道支援のプロとしてのキャリアは、稀有なものであり、その自己犠牲の貴さは人を感動させ、圧倒する。
だが、だからといって本人を聖母マリアやマザー・テレサのように神格化するのは、大きな間違いだろう。むしろ、「聖女」ではない我々と同じような等身大の人間が、天職に出会い、子どものころからの夢をかなえ、これだけのことをやってみせたことの方が壮挙だろうと私は思う。
私はインタビューで繰り返し、出口が見えない「究極の対症療法」を宿命づけられている「国境なき医師団」の重要性とそれに携わる者の覚悟について尋ねた。白川さんの答えは「2つの軸」に要約できる。1つは看護師として「私はまず看護師なんです。だからどこへでも行ける」という職業観。もう1つは「『国境なき』というところが軸。自分の理念、個人としての白川優子と合っている。だからどこに送られても私は対応できる」という信念だ。
同時に白川さんは「私は心の声に従って生きてきた。やりたくないものはやりたくない」という芯の強さも保ち続けている。
世が「令和」に変わり、「昭和」の戦争を実感をもって語れる日本人は年々、減っている。そうしたなかで、白川さんという、自分の言葉で戦争の現実を伝えられる語り部を得たことは日本にとって幸運なことだろう。
最後に『紛争地の看護師』について触れておきたい。
書評執筆時に2度、インタビューの前と本稿執筆の準備で、私は本書に4回目を通した。毎回、もっとも腹に響き、胸に迫るのは「戦争に生きる子供たち」だった。「はじめに」から読み起こして、この絶望と希望のないまぜになった最終章にたどり着く読書体験を、多くの方に共有していただきたい。
白川優子(しらかわ・ゆうこ)
1973年、埼玉県生まれ。坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校卒。Australian Catholic University(看護科)卒。日本とオーストラリアで看護師の経験を積み、2010年に「国境なき医師団」に初参加。シリア、イエメン、イラク、南スーダン、パレスチナなど、紛争地を中心とした派遣に応じてきた。現在は「国境なき医師団日本」で海外派遣スタッフ採用の担当を務めている。2018年に初の著書『紛争地の看護師』(小学館)を出版した。