横山やすしと兄弟盃の山口組幹部「食えない芸人のセーフティネットとしての反社」を語る

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「山口組」兄弟分が明かす「それからの『やすし』」(2/2)

 1989年に吉本興業から解雇を通告された横山やすし(享年51)の“それから”を、元山口組中野会若頭補佐の竹垣悟(68)が明かす。現在、暴力団員の更生を支援するNPO法人「五仁會」を営む竹垣氏がやすしと出会ったのは92~93年。氏がカタギになる前のことである。突然“行ってええか?”とやすしは竹垣邸を訪れ、竹垣氏から小遣いを受けとっていたという。

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 月に数度、快速に乗って姫路の竹垣邸を訪ねる元天才漫才師。ある日、酔い潰れそうなタイミングで、囁くようにこう言った。

〈ちょっとカネ貸してくれへんか、啓子(※やすし夫人、08年没)が困っとる〉

「“なんぼや?”って聞いたら、掌を目いっぱい広げて数字の5を示すんです。小さい声で『500万』て言うてたかもしれへんけど、“わかったぁ、50万な”ってそのまま包んで渡したんです。そんなん500万円ってはっきり言われたらかなわんもんね。回収できる類のカネと違うから。とはいえ、“その代わりに師匠、借用書をもらわなあかん”と言うて書いてもろた。そんで見たら、全部カタカナよ。『借用書』って文字も『横山やすし』さえもカタカナ。“師匠、字知っとるやろ?”って尋ねても、“そんなん知らん”としらばっくれる。借金慣れしとったんかな。誰が書いたかわかれへんもん、カタカナばっかりで。子供が書いた風にも見えるから借用書としての値打ちはなかったね」

 借用書のエピソードが物語るように、やすしはあちこちに借金しては返すことができず、あるいは返そうとせず、にっちもさっちも行かなくなりつつあった。ちょうどその頃、中野(太郎)会長から「竹垣、ちょっと来い」と呼び出される。中野はこう命じたのだった。

〈やすしのところへ借金取りが来た時に、“オレは中野会や”とやすしは言うとるらしい。“俺の名前を出すな”と、やすしに言うとけ〉

「やっさんがウチでやってたことは、今で言うたら闇営業みたいなもんや。あの頃は当たり前の話やけど、さすがに山口組の若頭補佐との関係が表沙汰になったらややこしいと私は考えました。それでやっさんには、“師匠、借金取りには中野会やなくて、竹垣やと言うようにしなあかんで”と。借金取りを追い払えて山口組や中野会にも迷惑がかからないように、私の舎弟盃を受けさせたんです」

 それは94年12月18日のことで(掲載の写真)、竹垣の方に「兄」、やすしの方に「弟」とあり、これは個人的な兄弟分を意味している。

「やっさんは、私と盃を交わさなあかん方向へ自分自身を追い込んでしまったってことです。あそこまで天下極めた人が、借金して“中野会や”と言うことほど破天荒なエピソードはないわなぁ。芸能界の中にも五分の兄弟盃を交わしてる者はようけいるとは思いますが、兄・弟の盃をしているのはあまり例がないでしょう。私もやっさんの最後の方はそれだけ面倒見とったということやね。年に1億円くらいは儲けていましたから、落ち目のやっさんのスポンサーになるくらいは大したことはなかったんです。返ってこない500万円は困るけど……」

 竹垣の証言を通じ、身から出た錆とはいえ、もはや生業はなく、妻子を抱えてキケンな金策に走り回っていたやすしの姿が明らかになった。密接交際者と指弾されるところだが、良し悪しを別にするなら、食えなくなった芸人のセーフティネットとして反社があったのは事実だろう。

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