山口組兄弟分が明かす、横山やすし「吉本解雇後」最後の7年間

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“やすしを使ったってくれへんか”

 竹垣の話に戻ろう。2人の出会いについては、

「92年の終わりから93年にかけての頃ですね。当時、私の親分やった中野太郎・山口組若頭補佐が、“ちょっと竹垣、家の方へ来てくれへんか”と言うんです。家というのは京都の八幡市。中野会長が96年7月、4代目会津小鉄傘下の組員に銃撃された散髪屋の近くです。その家で、“竹垣、やすしって知っとるか?”と聞かれて、“知ってるも何も、私、大ファンです”と答えました。天才漫才師で、雲の上の芸人やと思て見てましたね。私が東映の大部屋におるとき、高倉健、鶴田浩二、若山富三郎……それこそ綺羅星の如く映画人が並んでおりました。芸人でそれに比肩するのは誰かと問われたら、横山やすし、西川きよしを措いて他にない。それくらいオーラがある人やと思てたんです」

 そんな憧れを口にした竹垣に対し、中野会長は、

「“そうか、お前いっぺん、やすしと会うてみるか? 会うて、もし良かったら、いろいろ姫路でディナーショーとか何やかんややっとるから、やすしを使ったってくれへんか”と言いましてね。やっさんの家の電話番号聞きまして、こちらから電話したら『横山です』って出まして。“親分から聞いたんやけど”と言うと、“そうですか”と。“もし時間あったら姫路の方へ飯でも食いにけぇへんか”と言うたのが最初ですわ。親分が誰に頼まれたとかそういう事情は一切聞かされなかったんです。やっさんが中野会とどこで接点ができたのかはっきりしませんね」

 とはいえ、竹垣の頭を過(よぎ)るのは、例えばこんな想像だ。

「92年、やっさんは野村秋介代表の『風の会』から参院選に出ましたよね。風の会のことは菅原文太らが応援してました。文太が山口組とべったりなんは有名な話で、その関係の筋やと思わんでもないけど……正直わかりませんわ。落ちぶれた言うても天下の漫才師やから大阪やと目立つし、その点、姫路やったら田舎やしええかなという会長の判断もあったのかもしれません。当時私は中野会の若頭補佐で、執行部の一員でバリバリ頑張っとったんです」

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