山口組兄弟分が明かす、横山やすし「吉本解雇後」最後の7年間

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「山口組」兄弟分が明かす「それからの『やすし』」(1/2)

『それからの武蔵』は巌流島後、晩年までの剣豪を描いた名著である。他方、今から30年前に吉本興業をクビになった横山やすしは亡くなるまでの7年弱、金策に奔走し、当時の山口組幹部と兄弟の盃まで交わしていた。その兄貴分が明かす「それからの『やすし』」。

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「何とはなしにやっさんの顔見たら、歯茎から血が滲んで歯がところどころ染まっていましてね。“師匠、口から血ぃ出よん、おしぼりでふかなあかん”と言うたんです。本人? 全然それに気づいてへんかった。後で聞いたら、肝臓が悪ぅなると、そういう症状が出ることがあるらしいんですわ」

 と、“その日”を振り返るのは、“師匠”あるいは“やっさん”こと横山やすし(享年51)の最後のスポンサーであり、晩年に盃を交わした元山口組中野会若頭補佐の竹垣悟(68)である。

“その日”とは、1995年12月25日のことであり、写真のように、竹垣がマイクを握っている。やすしは酒が回ったか、聴き惚れているのか、その両方なのか。多年の鯨飲で肝臓は絶叫しているはずなのに、気持ちよさそうだ。

「肝硬変で亡くなったんは、96年の1月21日やったから、この忘年会が最後になってしまいました。第一報を奥さんの啓子さん(2008年没)から聞いて、胡蝶蘭を持って弔問に行ったんです。テレビに映るから思て、結構目立つやつを持っていったんやけど、やっぱり映らへんかったですね」

 20世紀の末であっても、現役暴力団幹部の名が記された供花だとブラウン管に映るのは都合が悪かったか。駆け足になるが、ここで竹垣の経歴を紹介しておこう。

 兵庫県姫路市出身の竹垣は、東映東京撮影所の大部屋時代に端役として映画に数本出演したり、若山富三郎の付き人を経験した後に、竹中正久組長率いる竹中組の直系下部組織に身を置いた。正久4代目が射殺された、血で血を洗う山一抗争を経て、竹中組当代となっていた竹中武(4代目の実弟)組長が山口組を脱退する89年、竹垣は中野会に移籍。当時の古川雅章組長は、先ごろ手記を出版した許永中氏と親しい間柄で知られている人物だ。後に触れる中野太郎会長は、5代目山口組若頭補佐の重鎮である。

 97年に起きた宅見勝・5代目山口組若頭射殺事件を機に、竹垣は古川組へ移籍。2005年にカタギとなり、現在は暴力団員の更生を支援するNPO法人「五仁會」を故郷の姫路で営む。

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