「阿部詩」は柔道世界選手権でV2 お兄ちゃん、もう一度私を引っ張って

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畳を掴む猿の足

 高校時代、阿部詩の練習を取材したことがある。体力、身体能力ともに飛び抜けていた。匍匐前進(腹這いで前進する)など、乱取り(自由に相手を代えて次々と勝負する練習)前の長時間の基礎訓練でも、広い道場の端近くまで来ると一人、逆立ちしてさっさと歩いていた。兄の一二三もよく知る松本監督が「兄貴よりも詩の方が天才ですよ」と話していた通り、「打ち込み」(投げる寸前まで技の入りを繰り返す練習)でも、どれもが得意技のように美しい。筆者のインタビューに「私、足の指が猿みたいに長いんですよ。だからこれで畳が掴めるんです」と笑いながら足を見せてくれた。確かに五本の足の指は小指も丸まっておらず、ちょっと気持ち悪いほど(詩さん、ごめんなさい)長かった。当たり前だが、柔道は相撲同様に裸足で闘う競技だ。足の長い指は、倒されかけた時など、ぎりぎりまで踏ん張りがきく大きな武器なのだ。

兄はライバルに競り負け 五輪に黄信号

 一方、男子66キロ級の兄の阿部一二三は準決勝でライバルの丸山城志郎(26 ミキハウス)に敗れ、東京五輪がかなり危うくなった。「日本刀の切れ味」の内股と、巧みな巴投げを武器とする丸山。一方の阿部は強烈な背負い投げ、袖釣り込みなど担ぎ技が武器だ。試合中、丸山は足を負傷し治療したが畳に戻っても足を引きずっていた。阿部優勢のまま延長に入り観客の多くは阿部の勝利を予感した。だが3分46秒、丸山が得意の巴投げから浮き腰で技ありを奪って勝利した。決勝では丸山は韓国選手を下し、初の世界王者となった。

阿部一二三はこの日、担ぎ技が効かないとみると電光石火の大外刈りで沈めるなど調子も良かった。だが丸山との大激戦に敗れた。遅咲きのライバル丸山にはこれで三連敗だ。ショックは大きかったが気を取り直して敗者復活を勝ち上がり、これも延長戦でイタリアの選手を下して何とか銅メダルを取った。

 丸山に巴投げを入れられて倒される負け方は4月の全日本体重別選手権とほとんど同じだ。メダリスト勢揃い会見で筆者が「長い延長戦で巴投げに対する警戒心が少し薄れたのでしょうか?」と質問すると、「巴は警戒していましたが、前に出た時にうまく引っ張り込まれてしまった」と言葉少なに話した。入り方は巴投げだが決まり技は「浮き腰」。巴投げは相手の下に入り足で相手の身体を持ち上げ、自分の頭越しに投げるが、持ち上げた瞬間、素早く横へ引っ張り落とした丸山の巧みな技だった。丸山城志郎は父顕志さんがバルセロナ五輪代表というサラブレッドだが、すい星のように出てきた阿部の後塵を拝していた。昨年の大阪グランドスラムから巻き返している。一二三は怪我もあって今年に入って国際大会も精彩がない。黄信号どころか赤信号に近い。

「もう一度私を引っ張って」と詩

「一番得な技で投げられてよかった。不安やプレッシャーがあったのでほっとしています」と話していた阿部詩だが「お兄ちゃんが勝ってたらもっと嬉しかった」と弾けきれなかった。中国選手の頭突きで腫れた目の治療のために一二三は妹の背中側を通り抜けて一足先に去ったが、痛々しい姿の兄が心配でたまらない様子だった。

 この兄妹、ほんとうに仲が良い。一昨年のグランドスラムでアベック優勝した際、ツーショットでカメラマンに「もっと近寄ってくださいよ」と注文されると、兄は「彼女やないんやから」と照れたが、その間に妹は恋人のようにしっかりと兄に寄り添っていたのを思い出す。

「お兄ちゃんが負けたのは悔しいけど、まだ道はあると思う。もう一度私を引っ張ってもらえる存在になってほしい」と話した詩は少し前まで「兄を目指している」と語っていた。二人三脚は変わらない。これからは兄が妹を目指せばよいのだ。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

週刊新潮WEB取材班編集

2019年9月1日掲載

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