「二十歳の原点」はなぜ今も読まれ続けるのか 調査サイトの管理人が明かす“魅力”
命日は6月24日
1969年6月24日午前2時36分ごろ、京都市中京区にある山陰本線の天神踏切で、線路上を歩いていた女性が、国鉄(当時)の貨物列車にひかれ亡くなった。
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京都府警の捜査で、死亡した女性は、立命館大学文学部に通う高野悦子さん(1949~1969)と判明。享年20だった。
父親の高野三郎さん(1923~2001)は京都府警から連絡を受けて現地へ向かった。1946年に京都帝国大学を卒業し、神奈川県庁に就職。47年に栃木県庁へ移り、82年からは西那須野町(現:那須塩原市)の町長を2期8年務めた。1男2女に恵まれ、悦子さんは次女だった。
6月26日に三郎さん夫婦は娘の遺体を引き取り、京都市内の火葬場で荼毘に付した。そして、その日の夜から悦子さんの下宿で遺品の整理を始めた。
遺書のようなものは見つからなかったが、大学ノートなど十数冊に書き綴られた日記を発見した。三郎さんは一気に読了して愕然とした。そこには自分も妻も知らない娘の姿が克明に描写されていたのだ。
日記の一部が地元の同人誌に掲載されるなどし、71年に新潮社から『二十歳の原点』のタイトルで刊行された。収録されたのは、彼女が20歳の誕生日を迎えた69年1月2日から、最後の記述となった同年6月22日まで、自殺の2日前ということになる。
『二十歳の原点』が刊行されると、その反響は極めて大きかった。映画化されるほどのベストセラーとなったが、その後も世代を越えた読者に長く愛された。例えば新潮文庫の100冊、2019年版は『二十歳の原点』を選んでいる。
高野さんの没後50年という節目に合わせ、今年6月には双葉社が『コミック版 二十歳の原点』(作画:岡田鯛)を刊行。2018年、20歳を迎えた大学生・杉田莉奈が『二十歳の原点』を読書中、当時の京都にタイムスリップするという設定も一部で話題となった。
例えばツイッターで「#二十歳の原点」と検索してみると、今も多くの人がツイートしていることが分かる。彼女が自殺した天神踏切は既になくなっており、現在は高架下になっているのだが、命日の6月24日には花が手向けられた写真が投稿された。
ファンの間では有名な「高野悦子『二十歳の原点』案内」というサイトがある。内容は解説サイト、それも手間と時間のかかった取材結果が事細かに紹介されている。
そもそも『二十歳の原点』は純然たる日記であり、高野さんは公表を前提にしていない。そのため記述には少なからぬ“空白”がある。
このサイトは、そうした「行間の不明部分」を、できるだけ明らかにしようとしたものだ。多くの関係者のインタビューが掲載されているほか、当時の新聞や雑誌も発掘。『二十歳の原点』を更に深く理解できるための資料が充実している。学術誌や専門誌、はたまた大学の紀要論文の形で公になってもおかしくないレベルの内容だ。
《「二十歳の原点」の現場を取材・調査・研究しました。立命館大学や学生運動など背景も紹介しています。読者の方が日記を理解する参考になれば幸いです》
サイトの管理人は上のように謙遜するわけだが、少しでも記事を読まれた方は圧倒的な情報量に驚かされ、これほど管理人を突き動かした『二十歳の原点』という作品の力に想いを馳せるに違いない。
そこで管理人に取材を申し込んだ。サイトには「N. Kitamoto」の署名だけが書かれている。「大手企業に勤務している50代の男性」以外の個人情報は明かさないことを条件に応諾をいただいた。まず、Kitamotoさんと『二十歳の原点』の出会いについて訊いた。
「ちょうど私も高野さんと同じ20歳で、大学生でした。雑誌の名前は忘れてしまったのですが、時代ごとのベストセラーを紹介するという記事を読んだのです。そこで挙げられていた本は新宿の紀伊國屋書店でまとめ買いし、全て読破しました。その中の1冊が『二十歳の原点』で、とにかく衝撃を受けました」
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