「がんの心配は1日1時間でいい」 がん哲学外来の言葉
前回に引き続き「がん哲学外来」での対話風景を見てみよう。がん哲学外来とは、順天堂大学医学部教授の樋野興夫氏が開設した「対話の場」。そこを訪れた患者は、樋野氏との対話を終えると、気が楽になるのか、笑顔になることも多いのだという。樋野氏の著書、『がん哲学外来へようこそ』からある日の対話を見てみよう(以下、同書より引用)。
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患者の多くが口にするのが、再発への不安です。
「外出している時は比較的平気でも、自宅では考えるのをやめられなくなる」
「朝と夕方それぞれ6時ごろ、そして晩御飯を食べた後に自宅で淋しくなる」
このように訴える人が多いと感じています。
乳がんになった40代の女性も、次のように語っていました。
「いい先生に診てもらい、いい病院でがんを取り切ってもらいました。けれど、やっぱり不安になってしまうんです。先生から受けた説明を元に、70%くらいはきっと大丈夫と、頭で考えてはいても、患者にとっては再発するかしないか、ふたつしかありませんよね。再発してしまえば100%です。
じつは看護師をしています。看護師がこんなこと言ってはいけないとも思うんですが、今月は担当するフロアに、これ以上は化学療法もできないというがん患者さんが何人もいらっしゃって。時々不安の波が押し寄せてきて、たまらない気持ちになります」
プロなのに、心の整理がつかないものなのか、と感じる読者の方もいらっしゃるかもしれません。しかし、人はどれだけの専門家であったとしても、自分のこととなるとすべてが違ってくるものです。
こういう私も、がんと診断されたら、もちろんショックに陥ることでしょう。
この女性に再発が起きるかどうか。
それは「なぜ、がんになってしまったのだろうか」という問いと同じように、いまいくら考えても、心配しても、誰にも分かりはしません。
初めてがんになった人というのは、突然暴走を始めたトラックの運転席に座っているような状態、と私は考えています。
その人が驚いている瞬間にも、トラックは見たこともない小道を猛スピードで突っ走り、曲がったり登ったりしています。運転席から前方は見えていますが、その範囲はとても狭い。
できれば何とかして、その危険な運転席から脱出したいものです。そして、走るトラックを上空から俯瞰するような目線に立ちたい。するとここはどこなのか、どこへ向かっているのかがつかめるはずです。
早ければ半年ほどで、自然と俯瞰的な視点に立てるようになるものです。ただその人の性格や、がんの状態が大いに関係することでしょう。一度大丈夫になっても、再発したことでまた精神的につらくなるケースもあります。
では自らの力で、「危険な運転席」を脱するにはどうするか。
日常生活における「がんの優先順位」を下げることです。
家にひきこもって、がんのことを心配する時間は、24時間のうち1時間あれば十分です。できれば、さらにその時間を少なくして、顔を洗うことや歯を磨くことと同じレベルの生活習慣くらいにまで、優先度を下げられるといい。これならば、起きて生活するうちのひとときに過ぎません。
これが悩みの解決はできなくとも、解消はできるということです。
考えても分からない悩みを問うのを止めるということです。
東郷平八郎は舌がんになって、「毎日痛くてたまらない」と訴えたそうです。すると医者は「痛いものです」と言った。それで東郷はもう痛いと言わなくなったといいます。
ただし、がんの不安はいったん脇へ置いておこう、と自分に言い聞かせるだけでは優先度を下げるのは難しいものです。
ですから、なにか新しい対象を見つけるというのが方策です。
がんよりも没頭できるもの、打ち込めるものを探すのです。
人間は自分のことだけを考えて満足する生物ではありません。ですから、いい縁、いい本、いいものを探してみるのです。
新しい対象を、「自分」の中に見出すというのも有効な手段です。
私はよく、「苦しい時ほど、自分の役割を見つけてみませんか」と言います。自分にはこれができる、という役割意識に目覚めて他人に関心を持つことで、自分自身にこだわっていた心のあり方が大きく変わるからです。
その役割は、新たな生きる基軸にもなっていきます。
前回の男性相談者も、じつはその一人です。奥さんともう一度面談に来たあと、がん患者とその家族、そのほか関心のある人々が経験を語り合う「カフェ」にも参加するようになりました。今では「カフェ」のボランティアスタッフの一員となり、積極的に発言してくれています。
その人の関心が外へ向き、心が豊かになっていく過程は、本人の表情が和らぐことでこちらに伝わってくるものです。そういう姿を見ると、私自身も慰められます。