「天皇陛下」が36年前の英国留学で養った人生観 機密文書でひもとく
配当を手に入れられる
浩宮が帰国を控えた1985年の9月、中曽根康弘総理はサッチャー首相に書簡を送っている。留学中の英国政府による配慮への感謝を綴った手紙で、それを駐英日本大使は直接届けようとしたらしい。いくら友好国とはいえ、首相が他国の大使といちいち会ったらキリがないのだが、外務省は要請を受けるよう官邸にアドバイスした。
「(大使のサッチャー)首相への会見要請は極めて異例だが、諸事情から検討する価値があると考える」「たとえ10分でもよいので会見に時間を割けば、プリンス・ヒロ(浩宮)の留学受け入れによる利益をさらに強固にし、配当を手に入れられる。日本人はこうした些細な事柄に強い関心を払うので、大きな効果、すなわち貿易や他の経済問題で公式に話し合う必要が生じた場合、こうしたジェスチャーは一層の価値を持つ」
将来の天皇に示した配慮に日本政府は深く感謝し、今後、外交上の摩擦が生じても柔軟かつ非公式に対話できる。これは英国にとって貴重な財産となるはずだ。
英外務省ファイルは何気なく「配当」(dividends)としたが、奇しくも、それはレーガン米大統領と浩宮の会見について米国務省が使ったのと同じ言葉だ。英国と米国、国は違っても皇室を外交に利用したいのは共通する証か。さらに英外務省はわざわざ、浩宮の弟の礼宮の名前を挙げ、これが皇族の最後の英国留学とならぬよう大使に念を押すべしと提言していた。
そして、浩宮の帰国後、ホームステイ先のホール大佐に、日本のある人物から一通の手紙が届けられた。本来、これは私信のはずなのだが、なぜか英国側は公文書扱いし、昨年秋に機密解除されている。
「息子は3週間の米国訪問を終えて元気に帰国しました。過去2年間、あなたと家族が息子のためにしてくれた事に妻と私は心から感謝しております。英国での生活と勉学はとても実りが多く、自身を確立するのに大きく貢献し、この体験は将来、息子にとって真の財産となるでしょう」
英文でタイプされた文面から父親の真摯な想いが滲み出るようだが、差出人の欄にはAkihito(明仁)と直筆の署名があり、まぎれもなく上皇陛下である。そして皇室とのパイプ強化に貢献したホール大佐には、英外務省も丁重な礼状を送っていた。
それから時は流れて時代は昭和から平成へと移り、成年皇族だった浩宮は皇太子となり、そして今、天皇に即位して「令和」が幕を開けた。
今の憲法では天皇は日本国の象徴であり、政治的権能はないとされるが、その発する言葉は国内外に強力なメッセージとして伝わる。今後、陛下も自らのメッセージを発していかれるが、その際にぜひ、御心に留めておいていただければと思う二つの文書がある。
かつて私は『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社)を書いた時、ロンドンの公文書館で、わが国の皇室に関する大量の機密解除文書を入手した。その一つの日付は1952年6月12日、来日した英国の国防大臣が前日に昭和天皇に拝謁した際の記録だった。
「天皇は、英国王室の近況を訊ねた後で国際情勢について質問し、中国やソ連、マラヤ、ペルシア、エジプトなどに関する問いに、われわれは然るべき回答をした。宮中の式部官長によると、天皇は国際情勢に非常な関心を持っているのだが、今の憲法下では、政府から情報が入らず、自分の意見を言う事もできないという」
そしてもう一つは、その5カ月前、宮内庁の式部官長の松平康昌がロンドンを訪れた際の英外務省の内部文書である。すでに前年の秋にサンフランシスコ講和条約が調印され、連合国の占領も終わろうとする中、松平は海外の王室制度の調査で欧米に派遣された。その彼に、英国政府は、立憲君主のあり方を具体的にアドバイスしようとしていた。
「松平には、政府内部で何が起きているか、それを天皇に完全に伝える機構を確立せよと教えるべきである。これまで指摘したように、立憲君主をいかに機能させるか、米国人はまったく理解していない。主権は国民にあって、君主はただゴム印を押す存在と規定し、その結果、天皇は何が起きているか、知らされないシステムが出来上がってしまった」
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