わずか25万円のために人生を捨てた……過酷なフランチャイズ事業が生んだ悲劇
起こるべくして起こった事件
大阪生まれの別府は、地元の中学校を卒業、若くして名古屋に出て、妻と知り合って結婚した。仕事は、運送会社のドライバー。市内にある妻の実家に身を寄せ、1男1女をもうけた生活は、慎ましいながらも安定していたらしい。
その暮らしに、あるとき小さな亀裂が入った。別府家と親しかった人物は、
「義母とのトラブルで7年前にこの市営住宅に移り住んだんです」(「週刊文春」2003年9月25日号)と事情を話している。心労の種ははっきりしないが、引っ越しの3年ほど前から彼は、心身のバランスを崩し睡眠薬を服用するようにもなっていた。
会社での働きぶりは「無口でまじめ」と評判だったが、ひとつの会社に長くとどまることができなかった。裏を返せば、堅物で融通の利かない側面もあったようで、36年間で6社を転々と渡ってきた。そんな働き方が、年齢とともにきつくなってきたのは想像に難くない。まして不況風は年々強まり、業界ではリストラが日常化していた。
事件があった年の1月、別府は、一念発起して軽急便の会員ドライバーになった。元の同僚には、「自分で仕事をはじめようと思う」と言った。
「安定した収入が確保できます」
と、当時の軽急便のポスターにはある。折り込みチラシをみて説明会に出かけた彼は、「月収30万円~50万円は保証」「車1台で簡単経営」といった言葉に背を押され、転職の決意を固めた。
昭和61年に設立され、長引く景気低迷をもろともせず、業績を着実に伸ばしてきた軽急便は、完全フランチャイズ制によって成り立っていた。つまり、別府ら就業希望者は会社と雇用契約ではなく、独立したフランチャイズ加盟店として運送委託の契約を結ぶのである。
それにはまず、登録料7万円に指導料7万円をおさめたうえ、105万円の指定軽自動車を会社から購入しなければならなかった。総額約120万円にもなる初期費用は、仕事にあぶれたり行き詰まって駆け込んでくる中年の応募者にとって、決してたやすい額ではない。
別府は、大切な生命保険を解約した300万円を、契約資金にあてていた。ただし軽自動車購入に際しては、60万円を頭金として、残りの45万円を60回払いのローンにしている。
こうして誕生した「会員」に、会社は定期的に仕事を回すかわりに、月1万円を「軽急便」の看板代として徴収し、売り上げから16~20パーセントを手数料として差し引く。残りが、冒頭の別府の要求にあった「運送委託料」なのである。単純計算すると、7月からの3カ月で、彼の手元に残った金は1カ月あたり、9万円にも満たなかったことになる。サラリーマン・ドライバーであったころの、半分以下だった。さらにここから、ガソリン代や保険代を捻出しなければならない。この業界が、「配送内職」と囁かれる所以である。
22歳になる別府の長男はすでに社会に出ていたが、高校3年生になる長女を抱える一家の暮らしは、次第に苦しくなっていった。軽急便の仕事と妻のパートだけではとても足りず、別府は新聞配達をはじめ、家計を補った。
「いつ仕事が入るか分からずの状態が続き、ドライバーは不安な毎日を過ごすのです。体力があって機転が利いて、愛想もいい。そのようなドライバーには事務所側も仕事を優先して回すが、それ以外は…」(「別冊週刊実話」同年11月3日号)
と元軽自動車運送組合の理事をつとめた佐々木哲也氏は、当時の取材に対しこうこたえている。稼げる者と稼げない者の格差が広がるなか、「起こるべくして起こった事件」との厳しい見方もした。
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