【特別連載】引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ(1) 引き裂かれた時を越えて――「二・二六事件」に殉じた兄よ

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 内外の街や島を焼き、同胞約300万人以上の犠牲を生んだ日本の敗戦から、75年目の夏が訪れた。

 軍部が反対勢力を一掃して政治をわが物にし、国民の統制と総力戦へ舵を切る転機といわれるのが、1936(昭和11)年に起きた「二・二六事件」。天皇に弓引いた叛乱と陸軍から宣伝され、戦後はファシズムの時代の先兵と目された青年将校らの素顔も、蹶起と刑死の真実も、いまは歴史と忘却のかなたにある。

 その当時を知る生き証人だった遺族の女性が先月、104歳で他界した。

 長い沈黙を越えて語り部となり、兄である青年将校の言葉を伝え、戦前という時代と現在を重ねて事件の意味を問い続けた。20年の取材の縁をいただいた者として、終生の思いの一端を記していきたい。

鬼気迫る遺品の絵の情景

「母が、絵のようなメモを残したんですよ。亡くなる少し前、1人で何かを一生懸命にかいていて。私は初めて目にするものでした」

 青森県弘前市に住む波多江多美江さん(70)から、こんな電話をもらったのは7月7日だった。

 その前月29日、老衰のため104歳で眠るように他界し、お葬式が4日前に行われたばかりの母親、たまさんの遺品だという。速達で送られてきた「メモ」は掛かり付け医院の領収書の裏にかかれた、子どものような筆致の鉛筆画だった。三角屋根らしいものが5つ並んだその絵を眺めるうち、にわかに鬼気迫るものが込み上げた。筆者がこれまで、たまさんから何度となく語り聞かされた情景だったからだ。

 5つの三角屋根は、5張りのテント。中に長方形の箱が描かれ、その前にたくさん並んだ◯印は人の列らしい。鉛筆を握る力も弱くなっていたのか、少し震えたような字のメモはこう記してあった。

「5つ 遺体」

「まだ暖(か)かった 寝(ねむ)っているようだった」

「安田さんは、デスマスクを取っていた」

「テント 私達は少し待たされた」

「一度に五人ずつ銃殺 午前中に15人」

「暖(か)い遺体 焼場え(へ)急ぐ」

 読み取れた場面は83年前。1936年の7月12日の朝、現在の東京都渋谷区宇田川町の渋谷税務署や『NHK』の一部に重なる場所で、15人の青年将校らが銃殺された。

 戦前は陸軍衛戍刑務所があり、処刑場はその一角だった。

 彼らは同年2月26日の早朝、武装した約1500人の兵士を率いて首相官邸などを襲撃し、昭和天皇の重臣であった斎藤実内大臣、高橋是清蔵相や同じ陸軍の渡辺錠太郎教育総監らを殺害。永田町、三宅坂、溜池山王、赤坂見附などの一帯を占拠したが、3日後、陸軍部隊に包囲され、叛乱事件として鎮圧された。

 青年将校らと民間人の参加者は、東京陸軍軍法会議の「非公開、弁護士なし、一審のみ」の裁判に掛けられ、7月5日、「首魁」や「謀議参与又は群衆指揮」の罪状に問われた17人に死刑判決が下された。

 処刑はわずか7日後の7月12日。

 衛戍刑務所の北西隅に5列の壕が掘られ、煉瓦塀を背に正座用の十字架が立てられ、約10メートルの距離で銃架が据えられた。小銃がそれぞれ2挺固定され、額への1発目で即死しなければ心臓へ2発目を撃つよう照準されたという。

 その朝に処刑されたのは15人。遺族の河野司さん(故人)が編んだ記録集『二・二六事件』(1957年、日本週報社)に所収された当日の処刑指揮官の1人、山之口甫氏(歩兵大尉)の証言によると、青年将校らはカーキ色の夏外被姿で目隠しをされ、監房から5人ずつ刑場に連行された。

 午前7時に、香田清貞歩兵大尉、安藤輝三歩兵大尉、竹島継夫歩兵中尉、対馬勝雄歩兵中尉、栗原安秀歩兵中尉。「天皇陛下の万歳を三唱しよう」と香田大尉が呼びかけ、「天皇陛下万歳」の三唱が続いた後、射撃指揮官の手の合図で一斉に引き金がひかれた。

 同7時54分には丹生誠忠歩兵中尉、坂井直歩兵中尉、中橋基明歩兵中尉、田中勝砲兵中尉、中島莞爾工兵少尉、最後は同8時30分に安田優砲兵少尉、高橋太郎歩兵少尉、林八郎歩兵少尉、民間活動家の渋川善助、水上源一が銃弾を受けた。外の代々木原から、処刑の音をカムフラージュするような演習部隊の射撃音がひっきりなしに聞こえたという。

 一部始終を実見した刑務所看守、林昌次氏の同書の証言によれば、

〈銃弾の発射後、軍医駆けつけ脈を取り、絶息せば死体収容所に運んで並べ清拭して、更に安置所に運んで遺族に渡す〉

 という手続きが取られた。波多江たまさんは、青年将校の1人、青森県出身の対馬勝雄歩兵中尉=享年28=の妹だ。

 安置所とは、刑務所の外に仮設された5張りの三角屋根のテントのことであろう。

 不思議な絵とも見えるたまさんの遺品は、当時は極秘とされて写真も残されていない場面を焼き付けた「記憶の証言」だった。

(注・2回目の処刑は翌1937年8月19日、村中孝次元陸軍歩兵大尉、磯部浅一元陸軍一等主計、民間人の西田税元陸軍少尉、北輝次郎が銃殺された)

兄「対馬勝雄」中尉

『邦刀遺文』という書物に出会った。「邦刀」(ほうとう)と号した対馬勝雄中尉への、妹のたまさんら遺族の追憶と、旧仙台陸軍幼年学校に入った14歳から死までの日記や手紙を上下巻につづってある。

 1991(平成3)年に世に出たという。

「なぜ、二・二六事件から半世紀以上も過ぎてから……」

 それを問うため、弘前に向かった。1999(平成11)年2月のことだ。

「あの事件の後、対馬の妹であることを隠して生きてきた」

 波多江たまさん(84、当時)は、語り始めた。

「戦前は、天皇に弓を引いた『国賊』、敗戦後は『軍国主義の先兵』と言われ続けて」

 二・二六事件を扱った本だけは出版の度、ひそかに読んだ。が、さまざまな“真相”の誤りを見つけては、「兄の真実を伝えたい」との思いを募らせたという。

〈『私』なく、貧しい人々を思う、優しい兄でした〉

 この一文は、『河北新報』連載『時よ語れ 東北の20世紀』第6回目に載った「リンゴ花 解かれた時の封印 二・二六に散った兄の真実」(1999年8月5日)という記事の冒頭だ。

 筆者の新聞記者時代、たまさんを弘前に訪ねたのが連載開始の半年前だった。世紀の遷(うつ)り目に東北の100年史をたどる取材行で、二・二六事件に参加し処刑された対馬中尉の名と、当時84歳の妹さんのご健在を初めて知った。遠い暗い時代の歴史の本に記された事件を、そして、貧しかった東北から蹶起した兄を、いまも終わらずここにある出来事、いまもここで共に息づく家族として語るたまさんに、人生を懸けて「真実」を伝える使命を背負った人の覚悟を見た。

 以来20年、春夏秋冬の岩木山を仰ぐJR奥羽本線の電車で弘前へ何度旅し、会うたびに遠くなる耳に「たまさん」と呼びかけながら兄と事件の話を聴かせてもらったか。

 毎朝の新聞やテレビのニュースを欠かさず確認し、この時代、この社会、この国の政治の有様を見つめる視線の鋭さ、厳しさ、若い世代の行く末を憂うる言葉の重さ、深さは、まさに百余年を生きて、兄が殉じた戦前の昭和という時代を重ねて見ることのできる人ゆえだ、と感じた。

 未来を左右する政治への関心、平和の大切な価値を若い世代に問う長文の新聞投稿コラムを寄せてくれたこともたびたびある。そして、折々にもらった手紙は70通を超える。多美江さんから「母がいよいよ危ない」と伝えられてから、それらの手紙を読み返した。

二・二六事件の真実とは

  東日本大震災、東京電力福島第1原子力発電所事故の取材に筆者が明け暮れていた2012年。7月3日の消印で届いた手紙は、たまさんの好物、山形のサクランボを送ったことへの礼状だった。被災地の人々への心配と見舞いの言葉、東北の実りの季節の話題から、手紙は突然、「さて、サクランボを前にして兄の思い出がよみがえりました」と二・二六事件の記憶へ続いていった。

〈今すぐ亦(また)七月十二日が(事件の刑死者の慰霊)法要です。牢(衛戍刑務所)に入っている兄に、弘前の小父がサクランボを沢山カゴに入れて東京に来ました。然(ただ)しそれは間に合いませんでした。お盆にのせられたサクランボを見つめたまま、誰れも手を出さず、口も開かず、只眺めていたのを思い出します〉

〈軍人は国を守る者と、それをのみ願って死にました。私が今、刑死した若者達のあまりの純真さに驚くと共に、言葉がありません。(中略)部下が血を流して得た其の土地(旧満州のこと)を、財閥が引き受けて大もうけをしたのなら、其の何分のいくつかを戦死者の家族に、と云うのが兄達の考えでした。兄は戦地から毎日のように父に便りを送って来ました。それは明日がないと思ってのことでした。従って、功でいただいた物は全部、(部下の兵士の)方々にあげていまして、お金も殆ど其のために使い果たしていました〉

〈残っている(兄や青年将校らの)手紙等を見てびっくりでした。刑死した人の考え方は十人十色でしたでしょうけれど、国を思う心は皆同じだったのです。自己責任を通して亡くなった兄を私は誇りに思います。(中略)そして自分は命以上に国にささげる物はない共、そして、このままでは日本は駄目になる共、戦争の拡大は望まない共云っています。只々 天皇と国しか考えていない。其の国を守るには、兵士と其の家族を大事にしなくてはならない、と〉

〈今の人々はあまりに、あの頃が判っていません。この事件を追及してゆくと、農村(の貧困と苦境)に行きつくのです。お金持ちの子は兵役を逃れていました。戦地に行った兵は農家の子供達が多く、それも一軒から二人も三人も出征しているのです。(中略)農地はどうなりますか。(青森から上京して)二十年近く東京に住んで、戦争で丸裸で故郷に疎開した私は、二十年前と少しも変わっていない青森の農家を見て絶句しました。農家なのにお米が食べられない、カヤもない。シラミとノミで、アメリカの飛行機よりも困ると母が云いました。農家の窮状は目をおおうばかりでした〉

〈兄は何処迄も(天皇)陛下を信じていました。(昭和維新のための蹶起に)お許しが出たら、赤飯をたいて祝ってくださいと云って亡くなりました。(教育勅語の忠孝の道そのままに生きようとした)兄にしてみれば、この赤飯がせめてもの親孝行だったのでした〉

 しかし、対馬中尉が最後に願った赤飯は、ついに一家で炊かれることはなかった。

銃殺刑「執行の朝」に

 古来あるべき天皇親政の理想を妨げ、政治権力と大資本を私し、皇国の行く末を誤らせる元老、重臣、官僚、軍閥などの奸臣を討ち、国家を改造し統帥権の名の下に国防を充実させ、大凶作にあえぐ東北の農村をはじめ国民の窮乏を救う――。

 大化の改新や明治維新にならい「昭和維新」断行を掲げた青年将校らの行動は、しかし、〈朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは、真綿にて朕が首を締むるに等しき行為〉と昭和天皇の怒りを招いた(『本庄日記』原書房、本庄繁侍従武官長著)。

 青年将校らが敵視した、「統制派」と呼ばれた陸軍主流派からは国家反逆の徒と貶められて発表され、昭和維新の志を同じくした仲間も根こそぎ軍事裁判で罰せられ、軍を追われた。彼らの訴えは銃弾と封殺によって闇に葬られ、沈黙を強いる監視が遺族にも及んだ。

 たまさんの思いは、世の中で起きること、身の回りのささやかな出来事も、兄と二・二六事件、それを生んだ苦難の時代への記憶につながった。そして、蹶起という行動にしか行き着けなかった兄の生きざまと死を、繰り返し手紙につづり、語り続けた。誰よりも兄の純粋さを信じるがゆえの無念と苦痛が、遺体引き渡しの場面を、その象徴のようにたまさんの目と心に焼き付け、104歳になるまでフラッシュバックさせてきたのだろう。

 たまさんが亡くなる2カ月と少し前、今年4月8日に弘前の自宅を訪ねた時も、死に至る病になった喘息のような苦し気な肺の音を漏らしながら、83年前のあの朝の光景を話した。

「7月12日の朝は、誰も気づかないくらい静かに霧雨が降っていた。母(なみさん、故人)が憔悴したようなすごい顔で、2階から寝間着で降りてきた」

 当時、東京で働いていたたまさん、姉たけさん(故人)が住んでいた四谷箪笥町の借家でのことだ。

 死刑判決が発表された7月7日から家族の面会が許され、青森市の生家、対馬中尉の妻の実家の両親らが連日、陸軍衛戍刑務所に通っていた。

 5日目の12日は日曜日に当たり、「面会はお休みです」と看守から告げられていた。しかし、母なみさんはこう話したという。

「けさ早く、軍服を着た勝雄(対馬中尉)が枕元に座り、一言も言わずにじっと私を見ていた。別れのあいさつに来たんだ」

 そして、階段にへたり込んだまま動けなくなった。なみさんは霊感が強かった。東北で昔から「シルマシ」と呼ぶ、死者からの知らせだったかもしれない。

 ほどなく午前8時ごろ、玄関ががらっと開いて憲兵たちが死刑の執行を伝達に現れ、「遺体を引き取りに来るように」と冷たい事務的な口調で通知書を置いていった。

 あまりのことに両親姉妹の誰も口をきけず、炊いたご飯も食べられなかった。

 しばらくして迎えに来た憲兵の車に、霊柩車を用意して付いていくと、広い原っぱに着いた。代々木原練兵場だった。現在の代々木公園から宇田川町までの一円を占めた練兵場に衛戍刑務所は接し、その門外に三角のテント群の遺体安置所は設けられていた。

「前の晩からシトシト、音もなく降っていた雨がからりと上がって、濡れた芝草の野に日が差し、まるでダイヤモンドがまかれたみたいにキラキラと光っていた。霊柩車も並んでお祭りのようだった」

 たまさんは、その情景がいまも忘れられないと言った。

「最初に案内された刑務所の部屋で所長さんが兄の最期の様子を話してくれた。どの将校も取り乱した姿はなく、立派だったと。外の安置所の前には他の遺族たちも並んでおり、順番で私たちが案内されたテントの中に、木のテーブルに載った白木の寝棺があった」

供養続ける「仏心会」の人々

 83年前も、ちょうどこんな梅雨空だったのだろう。細かい霧のような雨が、衛戍刑務所の処刑場があった場所を濡らしていた。

 今年7月12日の午前9時すぎ。渋谷税務署の角の緑の中、右手を天に掲げて観音像が立っていた。

 台座を囲む赤いレンガの壁は、銃声が響き渡った朝そのままに処刑場を生々しくしのばせる。白い木柱には「二・二六事件慰霊碑」の文字。涙雨に包まれたかのようなその場所を、都会の慌ただしい朝は誰にも気づかせてくれない。

 道路向こうの『NHK』の南門へ、通る人の群れが吸い込まれていく。観音像の下に焼香台があり、そこに花束を供え線香を上げる喪服の男女がいた。青年将校らの遺族会「仏心会」有志だった。

〈昭和維新の企画壊えて首謀者中、野中(四郎)、河野(寿)両大尉は自決、香田、安藤大尉以下十九名は軍法会議の判決により、東京陸軍刑務所に於て刑死した。

 この地はその陸軍刑務所の一隅であったり、刑死した十九名とこれに先立つ永田事件の相沢三郎中佐が刑死した処刑場の一角である。

 この因縁の地を選び刑死した二十名と自決二名に加え、重臣、警察官この他事件関係犠牲者一切の霊を合せ慰め、且つは事件の意義を永く記念すべく、広く有志の浄財を集め、事件三十年記念の日を期して慰霊像建立を発願し、今ここに竣工を見た。

 謹んで諸霊の冥福を祈る。昭和四十年二月二十六日 仏心会代表 河野 司 誌〉

(注・相沢三郎中佐は仙台市出身。昭和維新の運動に深く共鳴し、二・二六事件に先立つ1935=昭和10=年8月12日、運動の敵対者と目された陸軍統制派の中心人物、永田鉄山軍務局長を斬殺。蹶起将校らの処刑の9日前、同じく衛戍刑務所の刑場で銃殺された)

 慰霊の観音像の台座にある碑文の一節である。仏心会は、青年将校ら15人の1回目の処刑から3カ月余り後の1936(昭和11)年秋、栗原安秀中尉の父で陸軍大佐の栗原勇さん(故人)が世話役となって生まれた遺族の会だ。

 往時の代々木原練兵場は敗戦後、米軍に接収されて「ワシントンハイツ」という軍用住宅地とされ、衛戍刑務所跡地は赤レンガの壁を残したまま、米軍車両のモータープールに利用された。1964(昭和39)年にアジア初の東京オリンピックが開催されるのを機に練兵場跡地の日本への返還が決まり、仏心会の人々は念願とした刑場跡への供養碑建立を計画した。

 旧大蔵省、東京都、渋谷区との交渉を重ね、建設資金も募り、建築家川元良一氏(代表作に同潤会アパート、九段会館=旧軍人会館など)、弘前市出身の彫刻家三国慶一氏の協力を得て、二・二六事件から29年後に建立、序幕を迎えた。遺族の先頭になって実現に奔走した2代目の代表が、自決した河野寿大尉の兄、司さん(故人)だった。

 同じ日の午後1時、港区元麻布にある曹洞宗賢崇寺。本堂の須弥壇に「二・二六事件関係物故者諸精霊位」の大きな位牌があり、その隣には、「空」(成仏の意)の字の下に「二十二士」の戒名が刻まれた位牌が並ぶ。

 対馬中尉の戒名は「義忠院心誉清徳勝雄居士」。

 在りし日の軍服姿の遺影がずらりと、須弥壇を挟んだ両側の白壁に飾られた。

 昭和もはるか遠くなった2019年の雨の東京の片隅で、仏心会の遺族たちによる今年の慰霊法要が行われた。

同じ境遇を背負った遺族

〈当山(賢崇寺)は今より三百二年前、鍋島藩三代の主 忠直公の菩提を弔う為に建立し、其のご戒名、興国院殿敬英賢崇大居士に因み 興国山賢崇寺と号される。爾来、江戸に於ける同藩の菩提所として、代々藩主の帰依甚だ厚し。現時の住職は藤田俊訓師とす〉

 栗原勇さんが1936年11月、遺族の参詣のためにガリ版で刷った『興国山賢崇寺累説』の文章である。

 鍋島家代々の墓所がある佐賀ゆかりの寺で、29代の藤田俊訓住職(故人。戦後に駒沢大学学監=副学長)も、檀家だった栗原さんも佐賀人だ。

 蹶起将校の栗原大尉、同じく佐賀出身だった香田大尉、中橋中尉、中島少尉の墓とともに、境内の刑死、自決した全員が合祀された「二十二士之墓」がある。

 7月12日の命日、そして2月26日に催される事件全関係者の慰霊法要の際も、仏心会の人々はこの墓に手を合わせ、花を手向ける。その長いつながりの機縁は、青森市の対馬家にも届いた1936年8月24日付けの手紙だった。

 母なみさん宛の封筒には、二・二六事件の後、得度し僧籍に入って如山と号した栗原勇さんの手紙と、刑死、自決した22人の法号、その遺族たちの住所を記した名簿が、それぞれガリ版刷りの1枚紙で入っていた。

 生前のたまさんから読ませてもらった手紙にはこうある。

〈今次の事変の為には、お互に甚大なる有形無形の損失を受けまして、何とも彼ともお慰めの言葉はありません。たゞ/\、我子の為に泣き同志達の為に涙にくれるのみであります。

 然しながら、私は安秀の親たる責任から、既に得度しある立場から、在京の便宜から……等何かと好都合かと考えまして、僭越ながら暫くの間、私にお世話させて頂きたい、必ず捨身となって犬馬の労に服します。

●今後は心から睦まじい親類のような懇親を結びませう。而して誠心誠意を以って慰め合ひ、且つは失礼か知れませんが、若しも生活苦のお方がありましたら、互に一飯を分かつことに致しませう。

●故人の諸英霊は、確に佛陀の御慈悲に救はれ給ひ、既に極楽浄土の一座に成佛せられて居ります。これからお互に佛心を深め清浄無垢の心情を以って永代の御回向に勤めませう(後略)〉

 事件から間もないころの遺族の心情、仏心会の命名のいわれも、つづられた言葉からよく伝わる。

 遺族たちは代々木練兵場でのわが息子、兄弟の遺体引き取りの場で、突然の逆境に突き落とされた当事者として初めてあいさつを交わした。その折、栗原さんが世話役になって互いの連絡のことなどの声を掛け、遺族たちは感泣し心を合わせた、と河野司さんは記している。

〈同じ立場の心の苦しさ、第三者にはとうてい理解できないこの深刻な苦悩は、同じ境遇の者同士でないと解ってもらえないことだった〉(『ある遺族の二・二六事件』河出書房新社、河野司著)

 悲嘆と苦しみの輪に、まだ21歳のたまさんもいた。

最後のあいさつの手紙

 賢崇寺での仏心会(現在は一般社団法人。香田忠維代表理事)の慰霊法要に、筆者が初めて出席させてもらったのは今年の2月26日。ずっと以前から長旅ができなくなっていたたまさんの名代を兼ねての参列だった。

 たまさんは2月の法要には欠かさず弘前の親しい農家が収穫した津軽リンゴを送っており(7月にはリンゴジュース)、「波多江たま」と記された大きなリンゴ箱が須弥壇の両側に供えられていた。

 俊訓師の孫の藤田俊英住職の供養の読経と、代替わりした遺族らの焼香の後、仏心会の監事で司会役の今泉章利さん(69)が各地にいる遺族の近況を報告し、「皆さんに伝えてほしい」とたまさんから届いた手紙を読み上げた。

 今泉さんは、父義道さん(故人)が近衛歩兵第三連隊の少尉として二・二六事件に参加し、禁固刑に処せられた。世話人の1人として、たまさんとも懇意にしていた。慰霊法要の日への手紙は、それが仏心会の長年の仲間たちへの最後のあいさつになると予期していたのかもしれない。

 手紙で語られたのは、やはり、遺体引き渡しの朝の情景だった。案内された天幕の下には白木の寝棺。

〈白(い着物)を着て頭部を幾重にも厚くして繃帯して、私の兄は眠るように、おだやかな顔でしたが、見えているところは赤、紫に血走っていましたが…〉

 腫れ上がった顔の包帯で隠された額に血がにじんでおり、そこに銃弾を撃ち込まれたと分かった。

〈母は右手をにぎりしめ、私達は左手をにぎりしめました。まだ暖かく、全く硬直もして居らず、昼寝でもしているような感じでした。私達は涙いってきもなく眺めてるだけでした。父は口をとじたまま眺めていました。涙は、こおりついたのでしょうか〉

 死者と遺族へのさらに酷い扱いは、息を引き取って間もなく体が温かいままなのに、永の別離を惜しむ暇も与えられず埋葬証書を渡され、憲兵から火葬場へと急がされたことだ。

 対馬中尉の骨箱を家族が守って青森に帰る列車の中や、東北線の途中の駅々にも憲兵が張り込んで、誰も接触できないようにした。

 実家の通夜、葬式も憲兵、特高(特別高等警察)が監視し、弔問客を調べたり、追い返したりした。

 悲しみを人に語ることも、戒名を刻んだ墓を建てることも許されず、「天皇に弓引いた逆賊」の扱いが遺族を後々まで苦しめた。

 104歳のたどたどしい、しかし、強い意思に導かれたような手紙は続いた。

〈兄は、あの事件で始めから死を覚悟していたのも判っています。陛下の軍隊を使っての事件は、始めから生きられぬのを覚悟していました。只、自分達の心が何処にあったのか、何故その事件を起したか。次第に乱れてくる政治や軍隊の上層部を見てぢっとして居られなかったのです。それも私は次第に判るようになりました〉

 すでに耳がかなり遠くなり、1人では歩けぬほど体も弱ってきたたまさんは、83年にわたって二・二六事件の真実と意味を求めた模索と葛藤と自問の末、それでも兄の最期を、遺族の無念を語り終えてはいなかった。

二・二六事件はまだ終わっていない

 4月になって喘息のような胸の異変をにわかに強く発して、6月に入ると娘の多美江さんが付き添う自宅のベッドで夜も寝られぬ苦しさに耐えた。そして、筆者の最後の訪問になった同月20日。

 たまさんは前の晩、赤黒い血の塊のようなものを吐き、それからは胸もすっかり楽になって久しぶりに眠れたという。見舞いに持参した山形の真っ赤なサクランボを一粒、口に含むと「甘いね」。

 多美江さんが「1週間、ものを食べられなかったのに」と驚くのをよそに、衛戍刑務所での兄の思い出につながる季節の味をかみしめてくれた。

 もう耳も聞こえない様子なので、ノートを破いて筆談をし、「お兄さんが『妹よ、よくぞ頑張ってくれたね』と、ほめてくれますよ」と大きな字で書くと、たまさんは笑顔を浮かべて手を合わせ、「お世話になりました」「ありがとうございます」。

 ところがにわかに、それまでの弱々しい口調がうそのように、

「びっくりしたのは、(代々木)練兵場にテントが5張り立っていて、芝生がきらきらと光っていて……」

 と語りだした。その情景はついに末期の床まで消えることなく昇華することもなく、104年を生きた女性の心と人生を苦しめ続けた。

「ここ数年は、『いまが人生で一番幸せ』と話していました」

 と多美江さんは話すが、それでも語り尽くせぬまま、冒頭のような絵にまでして残したかったものとは何だったのか。

「兄の真実はまだ世に伝えられていない」「二・二六事件はまだ終わっていない」という憾みなのか、「伝えてほしい」という遺言なのか。

 縁あって立ち会った者が、語り部の思いの一端でも受け継ぐほかはない。(つづく)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2019年8月15日掲載

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