「れいわ新選組」当選議員への微妙な感情 〈障害者芸人ホーキング青山特別寄稿〉

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 参議院選挙で躍進を果たした「れいわ新選組」。その当選者2名が重度の障害者であることが、さまざまな議論や波紋を呼んでいる。新聞やテレビでは国会のバリアフリー化を讃える声が中心だが、ネット上ではどこまでを公費で負担すべきか、といった疑問の声も上がっている。かねてから著書などで障害者の社会進出と税金の関係についての考えを述べてきた障害者芸人のホーキング青山さんはどう考えているか。以下、ホーキングさんの緊急特別寄稿である。

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 低投票率で終わった参院選は、翌日には吉本興業社長のグダグダ会見ですっかり忘れ去られてしまい、その後話題になったのは与党の圧勝でも野党のいつもの体たらくでもなく、「NHKから国民を守る党(通称・N国党)」が議席を取ってしまったことと、山本太郎氏率いる「れいわ新選組」が今回の参院選から始まった「特定枠」を使い、重度の障害者2名を当選させたことでした。

 世間で言われているように、これまで重度の障害者が国政に進出することはなかったので、画期的なことなのかもしれません。

 が、なんか釈然としません。

 たしかにこの方々は間違いなく当選したのですが、これはあくまで山本氏の力(知名度・パフォーマンス・戦術すべてを含む)であって、当人たちの力ではないというのが、釈然としない理由の一つかもしれません。

 無論、“世襲”など誰かの地盤を引き継ぐとかよほど知名度があるか、あるいはどこかの政党に所属しその力を借りない限り、ほとんどの人が自分の力だけでなんて当選できないわけです。だから、「他力は許せん」などと青臭いことを言うつもりはありませんが……。

 今回の当選者が集会で山本氏にマイクを向けられている姿は拝見しました。その山本氏から「(選挙活動は)無理のない程度で週1回でもいい」と言われていたとも聞いています。しかし、実際問題どの程度選挙運動をされたのでしょうか? つまりどのくらい有権者に政策を訴えたのでしょうか。

 得票数を見る限り、あくまでその当選が、山本氏の戦略と「特定枠」によるものだ、というのは客観的事実でしょう。もちろん、それは「障害者の社会参加」であり「障害者の声を政治に反映させる」一つの方法かもしれません。

 が、やっぱりいまひとつ釈然としないのです。

 お二人が当選してからというもの、「国会のバリアフリー化を与野党を超えて皆でやるべき!」なんて声も聞こえてきて、「合理的配慮」との言葉のもと、参議院の会議場の固定の椅子が撤去されたり段差が解消されたりしています。

「バリアフリー化」が進むことで、お二人だけでなく今後、障害者が政界に進出しやすくなるのも良いことには違いありません。

 それでもまだまだ課題はあります。介護の人をどうするか。しゃべることが困難な方がどのように質問に立つか。押しボタン式の投票はどうするか。このあとも金に関する問題が次々出てきます。

 議員本人たちは、「できるだけ税金をかけずに」とおっしゃったそうですが、なかなか実際にはそうはいかないでしょう。

 国会内だけではなく、議員として活動している中でも、今利用している訪問介護を使えるようにしてほしい、と要望したとも伝え聞いています。

 しかし訪問介護というのはそもそもご自宅にいる方に日常生活をサポートする目的での介護であって、「経済活動」の範疇に入る仕事のサポートは想定されていません。国会議員の活動は公的なものであるにせよ、給料が出るのですから「経済活動」という面もあります。

 その「経済活動」である議員としての活動上で必要となった訪問介護の費用をどこが負担するのか。「福祉」として厚生労働省で「公費」として負担するか参議院で負担するかというところで議論になり、結果参議院で負担するということになったようです。

 ところが実はこれは「れいわ新選組」としては望んでいるやり方ではなく、運用ルールを変えて「経済活動」である他の職場でも「公費」で負担する仕組みを目指すのだそうです。要するに国会だけでなく、一般社会にもそのやり方を広げたいということです。それも介護費用を負担できる資金に余裕のある企業ばかりでなく、より多くの企業でこの制度を活用できるようになることを理想としているそうです。

 そうすれば重度の障害者が働きやすくなる――ということですが、そもそも「介護」にそんなにお金をかける余裕は国にあるんでしょうか。

 また、普通に考えると一般市民よりもはるかに収入の多い国会議員なら、自費で賄えるのではないか、とも思ってしまいます(支出も多いのでしょうが)。

「障害者の社会参加」は障害者への理解の促進という意味でも非常に重要なことですし、それを否定するつもりなんてさらさらありません。

 今回このような形で国政の舞台に重度の障害者の方々が出られる事は、同じ障害者の一人としてもそれ自体は素晴らしいことだと思うし、「画期的なこと」ではあると思っています。

 しかしながら、本当にここまでやる必要があるのか。そんな疑念が少しだけあるのも事実です。

「画期的なこと」だなんて言いながら、どうしてそんな気持ちになるのか。それは、はっきり言ってこの方たちが政治家としてそこまで期待できる方なのかまったくわからないからです。

 この方たちを否定しているわけではなく、本当に「わからない」のです。

「彼らが議場にいるだけで素晴らしい」――そんな考え方は美しいようでいて、バカにした話のように思います。私は障害者だからといって、仕事の評価の水準を下げるべきではない、と考えているからです。

 たとえば私は障害者芸人として舞台に出ていますが、「障害者だからネタの完成度が低くても大目に見てね」とは思っていません。『考える障害者』などの著書についても、「障害者だから雑な点は勘弁してください」と考えたことはありません。

 舞台に出た以上は、他の芸人と同じように厳しく見てほしい。本を出した以上は、他の本と同列に語ってほしい。これは一貫したポリシーです(だからって必要以上に厳しく見ないでほしいし、あまり面と向かって批判してくれなくでもいいんですよ)。

「最初の段階からお前みたいにひねくれた見方をしなくてもいいだろう」とおっしゃる方もいるかもしれません。

 しかし、現在の彼らを取り巻く「お祝いムード」が一段落して、もし今後、支援者たちの期待に応えられなかったとき、あるいはなんらかの理由で期待を裏切ってしまったとき(さすがに不倫スキャンダルはないでしょうが)、また世の中が「不景気」を今以上に実感したとき、今回のこの「バリアフリー化」に対し、「税金の無駄遣い!」なんて声が出てこないだろうか。そんな余計な心配さえしてしまうのです。それはこの「バリアフリー化」があまりに急速で“とりあえず感”がありありと見えるからかもしれません。

『考える障害者』でも、障害者と金の問題についてはかなり頁を割いて書きました。「バリアフリー化を進めましょう」という呼びかけに「そんなもの要るか!」などと表立って言う人はいません。反対する政党もありません。多分「N国党」も賛成してくれます。

 問題は、いくらまでなら進めていいか、つまり税金をかけていいのか、ということなのです。この点は綺麗ごとではなく、また障害者の都合だけではなく、冷静に議論して社会としての合意を形成しなければならないのです。

 今回のように、起きた状況に合わせて対処するだけでは、反動だってありえます。つまり「あそこまでする必要なかったよな」などという意見に世間が振れてしまい、結局さらに障害者が社会参加するチャンスが減ってしまう、なんて事態になれば本末転倒もいいところです。

 考えすぎでしょうか。でも、実際に障害者として生活していると、この手のことは常に頭の中にひっかかっています。

 そして、率直な印象を言えば、山本氏にこうした問題についてどこまでのビジョンがあるのかが、私にはよくわかりませんでした。言い換えれば、コストをかけていいというラインをどこに引くか、といった現実的な問題を真剣に考えたうえでの擁立とは思えないのです。

 単に障害者の代表を出したいというのであれば、もう少し障害の程度の軽い人を擁立するという選択肢もあったでしょう。以前、選挙に出る意志を表明していた乙武氏を始め障害者はもっといるわけです。山本氏の側にどこかインパクト狙いのようなところはなかったのだろうか、とつい邪推したくなるのです。万一そうならば「利用しただけ」ということにはならないだろうか、と。

 今のこの世の中に障害者が出ようとすれば「無理解の壁」にぶつからざるを得ず、私を含め多くの障害者は大なり小なりの葛藤を抱えて生きています。

 その辺のことをどこまで山本氏が理解しているのか、少なくとも現時点で私にはわかりません。今後注視していきたいと思います。

 最後に、これはたまに聞かれることなのであえて書いておきますが、私自身は選挙になんて一度も出ようと思ったこともありませんし、まして山本太郎氏の仲間になろうと思ったことも一度もありません……あっ、「メロリンQ」のころ、ちょっとだけ仲良くなってみたいとは思ったことがありました!

デイリー新潮編集部

2019年8月3日掲載

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