世界に伝わる和楽器ユニット『AUNJ』の響き
音楽には、国境はないが国籍はある――。
いにしえの時代から日本の文化、伝統として技法と音楽が継承されてきた和太鼓、三味線、箏、尺八、篠笛、鳴り物などの和楽器。大陸からもたらされた日本の古代文化と融合し、成立したそれぞれの楽器は、古来よりかかわりの深い神事のなかで雅楽として混成される以外は、従来、それぞれ独立した楽器として演奏されることがほとんどだった。それをバンドとして再編成し、日本の古楽や西洋のクラシック、アニソンまでを独自の音楽として追究する8人の和楽器ユニットが『AUNJ CLASSIC ORCHESTRA』だ。
2008年の結成以来、国内はもとより海外での演奏活動も多く、フランスが誇る世界遺産「モン=サン・ミッシェル」で世界初のライブを成功させ、カンボジアの世界遺産「アンコールワット」でも公演するなど、国際的に高い評価を受けている。
メンバーは家元や東京藝術大学出身などそれぞれ各楽器の第一線で活躍する邦楽家だが、結成の母体となったのは、リーダー井上良平さんと双子の弟である井上公平さんの兄弟ユニット『AUN』。双子ならではの「阿吽の呼吸」から生み出される彼らの独自の世界観に惹かれて集まったメンバーがどんな軌跡を描き、これからどこへ向かおうとしているのか。
7月28日の、奈良県吉野山の世界遺産「金峯山寺蔵王堂」本殿前での公演『「響」×「娯」~森に祈る世界遺産奉納コンサート THE SOUNDS OF JAPAN~』を目前に控え、全員でのリハーサルの合間に井上公平さんに話を聞いた。
実は僕、和楽器と出会ったのは18歳のとき。それまではずっとエレキ・ギターをやっていて、ロックが大好きでロックギタリストを目指していました。良平くんはベースで、一緒にロックバンドもやっていた。それがある日、『鬼太鼓座(おんでこざ)』という和太鼓ユニットのライブを聴く機会があり、もの凄い衝撃を受けた。和太鼓のあの音がガツンと入ってきて、なんなんだこの楽器は、この音楽は、と本当にショックを受けた。双子一緒に(笑)。その瞬間、2人ともギターを捨て、和楽器をやろう、と飛び込んだのです。高校3年生の冬休みでした。
『鬼太鼓座』とは、「田耕(でん たがやす、故人)」という1人の和太鼓奏者が、「走ることと音楽とは一体であり、それは人生のドラマとエネルギーの反映だ」という「走楽論」を主唱し、共鳴した若者が集まって1969年、佐渡で結成された。米ニューヨークの音楽の殿堂「カーネギーホール」でも公演を成功させ、国内、海外で様々なライブ活動を現在も行っている。
うちは5人きょうだいで一番下が僕ら双子ですが、実は長男が大阪藝術大学でパーカッションを専攻したあと和太鼓と出会い、『鬼太鼓座』で活動していたのです。それで高校生になった頃から「お前らもギターなんかやってないでこっち来い」と言われていたのですが、当時は「太鼓なんかやるかい。ロックが命や」と思っていた。
それが1988年、ちょうどカナダで「カルガリー・オリンピック」が開催された年ですが、その五輪関連のイベントに『鬼太鼓座』が出演するからお前ら荷物持ちでええから付いてこい、と長男から言われまして。ちょっとだけ小遣いももらえるらしいし初めて海外に行けるし、喜んで付いていってそこで初めてライブ聴いて衝撃を受けたわけです。
そしてたまたまその時メンバーが不足していたので、荷物持ちだけだったはずの僕らに「2週間後にやる公演にお前らを出すから猛特訓や」とか言われ、太鼓叩くことになりまして。いまから考えたらむちゃくちゃですが、それでステージにも上がりました。そうしたら信じられないほどウケましてね。毎曲ごとにオール・スタンディングオベーション。僕らが衝撃を受けた以上に、向こうのお客さんたちも日本の和太鼓が作り出す音楽に衝撃を受けたのでしょう。それを見て僕らはさらに感動しまして、これはもうこの世界に飛び込むしかないと思い、そのまま『鬼太鼓座』に入りました。いちおう、卒業式だけいったん帰国して、そのあとずっと海外公演ばかりで世界中を転々としました。
創始者・田耕の「走楽論」に基づき、和太鼓の訓練とともに毎日30キロほど走る修行の日々が始まる。そして1990年からは、和楽器奏者としては史上初の「カーネギーホール」公演を皮切りに、1万4910キロをマラソンしながら全米全州で公演を続けるという「全米一周完走公演」も3年かけて為し遂げた。さらに1998年から2年かけて、今度は「中国大陸一周完走公演」(1万2500キロ)も。そうやって和太鼓、三味線、篠笛など和楽器の修行を続けながら公演もこなし、世界中に和楽器の素晴らしさを伝え、駆け抜けていく日々を12年間、続けていくことになる。
とにかくその12年間は毎日が修行でした。朝15キロ走って公演がない日は一日中楽器の稽古をする。そして夕方にはまた20キロ走る。『鬼太鼓座』には田さんはじめ各和楽器の一流の演奏家がいましたから、稽古も厳しかった。もちろん酒タバコや遊びなんて一切ない。当時のメンバーは14人くらいでしたが、お金もないから1部屋に数人ずつ泊まり、新聞テレビもない生活。日本ではちょうどバブルの時代だったことは後に知りましたが、僕らにはまったく無縁の世界。そうやって毎日、朝から晩まで一日中音楽のことだけを考える、音楽に没頭する日々でしたから、まさに修行でしたね。あの12年があったからこそいまの自分があるのだと、僕ら2人は心底そう思っています。
そして30歳を迎えた2000年、世界16カ国、1000回を超えるツアー人生に区切りをつけるため、双子一緒に『鬼太鼓座』から独立し、『AUN』を結成。兄の良平さんは和太鼓と三味線を、公平さんは和太鼓と三味線、それに篠笛も演奏する。双子ならではの阿吽の呼吸で1本の三味線を2人で弾く二人羽織の曲『阿吽三味線』なども話題になり、2001年の正式デビュー以後、国内での全国60カ所ツアーなどを慣行する。
デビューアルバム『D.A.S.H~喜怒哀楽~』からしばらくは、三味線とベース、それに和太鼓じゃなくてドラムというバンド構成でコンサートもやっていました。そうしてしばらくした頃、良平くんに子供が生まれます。その子にどんな音楽を聴かせたいかということを僕も一緒に考えていくうち、やっぱりお父さんたちは日本の伝統的な音楽をやっているんだということを子供に伝えていくためにも、ちゃんと和楽器バンドとしての演奏をしていこう、CDもつくろうという方向になり、じゃあジブリの曲を和楽器だけで演奏してみたら、という話に繋がっていくわけです。そこで、和太鼓と三味線だけじゃなく尺八や箏、鳴り物なども入れてやってみようと声をかけて集まったのが、いまのメンバー。そうやって『AUNJ CLASSIC ORCHESTRA』(以下『AUNJ』)が誕生したのです。
2008年12月、第一級の古典技術を駆使しながら、誰もが知る名曲を誰の耳にも心地よい響きとなる新世代の感性を溶け込ませ、独自の世界観で作り上げたアルバム『和楽器でジブリ』をリリース。これが『AUNJ』としてのデビュー・ファーストアルバムだが、あのジブリの名作アニメの楽曲が和楽器だけで演奏されるとまったく新しい印象となり、大人から子供たちまで大人気となる。
いまでこそ『AUNJ』もすっかり認知してもらえましたし、ほかの和楽器ユニットも出始めていますが、当時は、あのジブリの名曲を和楽器だけで演奏するなんてそんなアホな、という雰囲気でした。それを僕らは、軽いノリとかではなく、真剣に、そして完璧な和楽器曲として完成されたものにしたいと思って取り組みました。
もちろん、邦楽の世界からは批判を受けるかもしれない。伝統芸能の世界を侮辱するのか、というふうに。あるいは、ジブリファンからも相手にしてもらえないかもしれない。そういう不安もメンバーの中にはあったと思いますが、とにかくすべての責任は僕ら『AUN』の兄弟が負うからと説得しましてね。実際、邦楽界からは若干そういう声もあったやに聞いています。でも、ほかのメンバーは違いますが、僕ら兄弟はもともと邦楽界との繋がりがない。一流の師匠につきましたが、古典の流派とか家元に連なっているわけではないので、いわば一匹狼のようにやってきた。それで、『AUN』の2人がやっていることですからと言ってくれればいいよ、とメンバーにも伝えていたんです。批判を浴びるなら僕らだけが浴びればいいからと。
それともう1つそのとき僕らがメンバーに言ったのは、とにかく和楽器の魅力を1人でも多くの人に知ってもらいたいということ。和楽器の音に興味を持ってもらい、和楽器っていいなあ、もっと聴いてみたいなあと少しでも多くの人に思ってもらいたいからやるのだということです。世界中の人にももちろんですが、まずは何よりも日本人の中にそういう人たちを増やしたいのだと。その想いはいまもまったく変わっていません。でもね、自分で言うのもナンですが、この『和楽器でジブリ』が出来上がって聴いたとき、本当に鳥肌が立つほど衝撃を受けました。和楽器って凄い、こんなに凄いのかって感じで。
その成功が、翌2010年6月、歴史的修道院としてカトリックの巡礼地でもある世界遺産「モン=サン・ミッシェル」でのライブに繋がっていく。修道院の建物内でコンサートをやるのは世界初。その模様は、準備段階からの密着ドキュメンタリーとして、『BS日テレ』の開局10周年記念の2時間番組となった。それをきっかけに、『題名のない音楽会』(テレビ朝日)へも出演することに。
しかし、あの修道院ライブはさすがに緊張しました。とにかく、あの建物の中でコンサートをやった演奏家って世界の誰もいないわけです。しかも、『AUNJ』としても初めて海外で外国のお客さんに向けて演奏する。本当にお客さんにウケるのか、感動してもらえるのか不安で不安で、あの時の緊張感はいまでも忘れられません。
そして翌2011年10月には、「世界遺産ツアー」と銘打ってイタリアのフィレンツェ、ルッカ、ローマ、サンマリノ共和国でも公演を行い、それらを含めてその後7年間で7本の2時間ドキュメント番組が作られたのですが、それをすべて出光興産さんが番組スポンサーになってくださいました。素晴らしいご縁をいただいたと感謝しています。
そして2013年には、世界遺産のカンボジア「アンコールワット」でもライブができました。これは、アンコールワットが世界遺産に登録されて20周年、「日本ASEAN友好40年」という節目を記念し、「ONE ASIA」をテーマにアジアの伝統楽器グループが結集したジョイントコンサート。全10カ国から奏者が参加しましたが、これはドキュメント番組だけではなく、コンサートそのものも出光興産さんがスポンサードしてくださいました。僕たちも非常に刺激を受けました。僕らは和楽器ですが、それぞれの国の伝統楽器、伝統曲には当たり前ですが1つ1つ素晴らしい個性があって、魅力がある。お互いに刺激を与え合い受け合うことで、さらに自分たちの音楽も深みを増していく感じでした。
実は、ちょうどその前年の2012年1月、僕ら兄弟と鳴り物師(チャッパ=小さなシンバル=ソリスト)のHIDEさんの3人が、『AUN』として文化庁から「文化交流使」に任命されまして、タイ、ラオス、ベトナム、カンボジアなどに派遣された。その際、カンボジアでのライブ終了後にレセプションがありまして。そこで観光副大臣の方から「アンコールワットで演奏したことあるか?」と聞かれた。もちろんあるわけがない。そうしたら、「じゃあやってみたら」と言われまして。その一言が「ONE ASIA」に繋がって、アンコールワットでの公演が実現したのです。この「ONE ASIA Joint Concert」は、その後も毎年、アジア各国で開催しつづけています。こういう交流の輪をアジアに、そして世界にどんどん広げていきたいですね。
こうした活躍は世界で報道され、欧米でも人気が高まっていく。結果、2014年のアメリカツアーでは、メジャーリーグ「ボストン・レッドソックス」の本拠地「フェンウェイ・パーク」球場にて、なんと日本人ミュージシャンとして史上初めて、試合開始前のアメリカ合衆国国家を演奏する。
あの90秒間もかなりシビれました。ちょうど上原浩治投手が活躍していた頃で、前年にはワールドシリーズで胴上げ投手になるなど、アメリカで大きな話題になっていました。そういうこともあってか、僕たちにも凄く注目が集まって、おかげさまでスタンド中が大喝采のオール・スタンディングオベーション。何と言っても紋付き袴姿の日本人が和楽器でアメリカの国家を演奏するわけですからね。僕らも大興奮しました。
その直後には、ワシントンD.C.の「全米桜祭り」クロージングセレモニーでも演奏させていただいて、僕ら兄弟は全米で放送されるテレビに生出演もさせてもらいました。
2019年6月には、最新アルバム『響 〜THE SOUNDS OF JAPAN〜』をリリース。『AUNJ』オリジナルの楽曲に歌詞がつけられ、タケカワユキヒデ、石井竜也、石丸幹二、渡辺美里など、レーベルの違う豪華ボーカリストたちとの奇跡的なコラボレーションを実現させた。
また7月には、「篠笛」による井上公平ソロアルバム『SMILE』もリリース。こちらはギター、ベース、ピアノなどを取り入れた、和楽器にとらわれない音楽「Wacoustic Music(ワコースティック)」を目指した作品だ。
オリジナルの楽曲を作るのは、和楽器が奏でる伝統的な邦楽の美しさとともに、それをもっと身近な音楽として楽しんでもらうため。確かに和楽器の邦楽は敷居が高いと思っておられる人も多いと思います。それはそれで伝統芸能として正統的な演奏技法は守っていかねばならないし、僕らも大切にしたい。そのうえで、もっと和楽器をたくさんの人に知ってもらいたい。
たとえば、三味線にしても値段で言えば数十万円から100万円以上するものもあります。ギターだったら1万円台でも手に入れられるじゃないですか。そもそも楽器屋さんで
三味線や和太鼓なんて売っていない。それが、ギターの横に三味線があって、ピアノの横に箏が置いてあって、若い人もどっちを選ぼうかなあと迷うくらい、だれでも手にして弾けるような存在にしたいのです。三味線って、和太鼓って、実はカッコいい音が出せるやん、と感じてもらえるようになってほしいのです。そのために、今後も日本だけではなく世界で活動し続けていきます。そして、僕と良平くんは『鬼太鼓座』として4回、カーネギーホールで公演していますが、『AUNJ』としてはまだやれていない。さまざまな海外の世界遺産でもやらせていただきましたが、スペイン・バルセロナの「サグラダ・ファミリア」でもまだやれていない。そういう夢も追い続け、実現させたいですね。