亡き父は晩年なぜ「ネット右翼」になってしまったのか
高度成長期を駆け抜けた昭和の会社員
晩節の父は、がんと同時にヘイト思想の猛毒に侵されていた。けれど、かつての父は、世の中のあらゆる知識を求めるような、フラットな感覚の持ち主だったはずだ。子ども時代に我が家にあったジャンルを選ばぬ蔵書は、僕をいまの仕事に導いた大きな要因でもある。小学生から有吉佐和子の『複合汚染』やレイチェル・カーソンの『沈黙の春』を読みふけることができ、「現代用語の基礎知識」や「イミダス」が当たり前のように毎年買ってあった。「わからないことをそのままにしない」「多くの人が言う『当たり前』を鵜呑みにしない」の家訓は、今も僕の芯を貫く根幹だ。
父のことを好きではなかったが、高潔さと愉快さを兼ね備えた思慮深い人物だったとは思っている。ならばなおさら、どうしてそんなにも父は偏向してしまったのだろうか。
父の死をあまり哀しめない中、心の隅で考え続けた。
父は戦中生まれで、農村への疎開を経て終戦後は名古屋の戦災復興住宅に暮らした。押し入れの奥が土壁で、穴から向こう側が覗けたらしい。だが誰もが貧しい中、玄関先を訪れる飢えた戦災孤児にたびたび施しをする祖母は、父にとって誇りだったという。小さなころは、とにかく腹いっぱいになった記憶がなく、父とその兄が歩いた後にはカエルが一匹も残らなかったと笑っていた。
母とは大学時代に知り合い、それなりに熱烈な恋愛結婚をして、トイレや炊事場も共同のアパートから2人暮らしを始めた。月末に金がなくなるたびに母の実家に転がり込んだという。
高度成長期を会社員として駆け抜け、昭和の歌に出てきそうな花壇のある小さな平屋を一軒建て、それを上手に転がして新興住宅地に綺麗な注文住宅を建てた。自家用車は小さなスバルが社用車の払い下げのコロナになり、クレスタから3ナンバーのプリメーラになった。
典型的な昭和の会社員像だろう。単身赴任が多くてほとんど家庭には不在なるも、博打はせず女遊びもなく酒は好きだが深酒はせず、母にも僕ら子どもにも経済的な不安を感じさせることがなかった。
「徹底的に性格や生き方が合わない」という理由で僕は早々に家を飛び出て勝手に貧乏のどん底に落ち込んだ時期もあったが、それは父とは別の話だ。
確かに僕との相性は良くなかった。けれど、元々の父のパーソナリティがそれほど毒々しいものであったとは、とても思えないのだ。
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