山口「八つ墓村事件」、保見光成死刑囚が弁護士にも語らなかった“田舎暮らしの地獄”
心臓付近を刺された死刑囚
保見死刑囚の20年に及ぶ田舎暮らしの中で、03年に大きな“事件”が発生している。集落の古老による“殺人未遂”事件だ。彼の手紙から当時の状況を紐解く。
《母が12月26日に亡くなり、S(今回の事件で殺害した男性)が顔を出しに来たので、1月3日にお礼の挨拶に行きました。Sもよく来たといって酒をすすめ、私はビール、Sは焼酎に牛乳を入れて飲んでいたら、酔ってもいないのに台所の下から牛刀2本を出して『おまえケンカができるか』と聞いてきた。いい年してこの男、何を考えているのかと思いました。私が田舎に帰ってきて、はじめて話らしい話をした日です。
1本の牛刀をアゴの下にあて、もう1本は左胸に。私は本気で殺る気かと聞くと、殺っちゃると言ったので、体をひねりました。その時心臓の外側を刺されました。刺されたあと、私も頭にきたのだと思います。胸に手をやりながら殴りつけてます。
女(Sの妻)が電話をしていたので119番にしていると思い、帰りました。チェリー(筆者註:保見死刑囚が毒殺を主張した上記の愛犬)が心配して私から離れようとしなかった。私が死んでいたらチェリーがどうなるのか、私は急に悲しくなりました。血止めをしてチェリーと寝ました。
朝、警察から電話が入り、私が悪いと思われていたので、刺された事を話した。病院に行って診断書をもらって来いと言われ、1月4日、あっちこっち病院を探し、縫ってもらって周南署に行った。
右、左、前と写真を撮られ、取り調べ室で刑事に「Sも自分が悪かったと言ってるから大事にするな」と言われた。「これからあなたも田舎の人と付き合って行かなければいけない。仲良くして暮して行くように」と言われ、私もそうかと思った》
以上が手紙の引用だが、本来ならSは殺人事件で立件されてもおかしくない。だが警察は何も動かなかった。保見死刑囚も今後の生活を考え、捜査を要望することはなかった。診断書も取らず、被害届を出さず、示談もしなかった。表沙汰にすることを避けた。
しかし私との面会では、「これが逆効果だった」と保見死刑囚は嘆いた。「この後、周りの人からなめられるようになったと思います」
保見死刑囚が自宅にいることを知りながら、「こんなあ、なにもできゃせんに」と暴言を吐きながら玄関を叩かれたこともあったという。
心臓付近を刺されるというのは極めてレアケースだろうが、近隣住民とトラブルになりながらも矛を収めると、かえって人間関係が悪化したというケースは、昨今の移住ブームでもしばしば見受けられる事例だ。
例えば、私のデイリー新潮に掲載した記事「憧れの『田舎暮らし』なんて真っ赤な嘘 女性が直面する“移住地獄”とは」(19年1月4日掲載)でも、似たような例を紹介した。山口県だけでなく、全国にいくらでも散見できるのだろう。
死刑囚を“差別”した集落
保見死刑囚は周南市で、高齢者が住む居宅のリフォームを請け負ったり、頼まれれば高齢者を車に乗せ、買い物に付き合ったりするなどしていた。そのため、逮捕後でも密かに彼を慕う高齢者がいた。
「保見容疑者には助けてもらっていた」と語る老女が、私に以下のようなことを明かしたことがあった。
「保見さんが裁判で主張した嫌がらせは、すべて本当のこと。集落の人から刃物で切りつけられ、胸に大きな傷を負った時も、私は『殺人未遂でしょうに。なんで警察に行かんの』と言ったくらい。集落でイジメられて、カレーを食べて苦しくて死にそうになったことも聞いています」
ある日、保見死刑囚は外出から帰宅すると、作り置いていたカレーを食べた。次の瞬間、息が止まらんばかりに嘔吐し、床にのたうち回った。
食中毒ではないかと保見死刑囚は考えた。「誰かがおそらく農薬か化学物質を混ぜたのでは」と判断した。それ以来、彼は自宅の周辺に過剰とも思える監視カメラを設置し、自宅のベッド脇のモニターで画像を確認できるようにしていたという。
「保見さんが言っていることは、全部本当ですよ。集落の者も分かっているはずです。でも誰も口には出さんでしょうけどね。保見さんが住んでいた金峰地区だけでなく、あの集落はどこでも、後から来た者はみんなイジメられている。やっぱり保見さんは親が亡くなったら、さっさと集落を出るべきだった……」
そう言うと、老女は涙声になった。保見死刑囚の親族は、彼の献身に現在でも感謝の念を忘れない。
「父親は肩の骨が折れたりもして、歩けないことはなかったけど、心臓のほうも悪くなっていた。母親も足が悪く、身体がままならない。誰かが介護しなければというところに、あれ(筆者註:保見死刑囚)が『じゃあ自分が』と帰ってきて、面倒を見てくれることになった。あれが両親を見てくれたから、きょうだいはみんな働いたり、どこにでも行けたりしたんです」
保見死刑囚はコワモテの面ばかりが誇張されて報道されるが、慣れてくると、いささか無骨なブラックユーモアも交えて、ウィットに富んだ表現も繰り出す。《でも、今はもう田舎はダメです。骨は海です。竜宮城に行きたいと思ってます》
イジメられた背景についてやりとりをしている中で、こう書き送ってきたこともある。
《私の場合は、よそ者扱いとか無視されるとかではありません。(私は無視された方が生活しやすい)私は田舎の人に迷惑をかけないから、みんなも迷惑をかけるなと話したこともあります。私が黙っていたから調子に乗った。田舎を捨てて出て行った人間が帰ってきてでしゃばるな、こんなことだと思います。しつこい嫌がらせが続きました。それにしても、命まで危なかった。犬も殺された》
さらに、今でもはっきりと覚えているという。集落の人間から言われた恫喝の言葉である。「わしの言うことが聞けんかったら、田舎では生きちゃーいけんどー」
そう言ったとされる人物も、今回の事件の犠牲者となった。保見死刑囚に、「田舎の人」と「都会の人」はどう違うと思うかと訊ねた時のことである。彼はこう答えた。「田舎の人は無神経です。都会の人は無関心です。私は都会に長く居すぎた……」
彼は故郷で自分が疎まれた原因についても、冷静に分析していた。「A、B、C、D、E(殺害された被害者らの名前)、みな自分の味方につけようとしたけど、私が相手にしなかった。それで、多分ですが、みんなで組み敷こうとしたけどダメだった」
表向き一枚岩に見える小さな社会でも、必ず人間関係の軋轢や心情のもつれは存在する。保見死刑囚が帰郷直後、内心では微妙な集落の人間関係の中で、それぞれの住民は保見死刑囚を自分だけにより近い者として取り込もうとしたという。
しかし、それが叶わないとみるや、一転して集落全体で保見死刑囚を「組み敷こうとした」というのが、自身の扱いをめぐる保見死刑囚の分析である。おそらくその辺りの機微を経て、保見死刑囚は「村八分」同然となっていったのだろう。
保見死刑囚とは、戦後に起きた過去多くの出来事や事件についても言葉を交してきた。なかでも強く反応したのが、1997年に奈良県月ヶ瀬村(現:奈良市)で発生した「女子中学生殺人事件」について話をしていた時だった。
当時25歳だった村の青年(のちに拘置所内で自殺)が、村内の女子中学生を殺害したかどで逮捕された事件である。保見死刑囚はその青年が、出自や家庭環境によって村内で幼少期から差別を受けてきたという話に、鋭く反応したのである。
保見死刑囚は差別について、「言葉には出さなくとも、される人間は体で感じるものです」という。
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