「陰キャ」がインフルエンサーになったら学生時代のいじめっ子から”死ね”とDMが来た件
人間は大きく二つに分けられる。陰キャラか、それ以外か。陰キャラ、それは「陰キャ」と訳され、コミュニティにおいて日の当たらない陰にいる人間を表す言葉として若者を中心に使われている。対義語としては「陽キャラ」という言葉がありこちらも陽キャと訳される。私は小中高と陰キャとして生きてきた。そんな筋金入りの陰キャの私は今、TVや雑誌、各メディアで活動するインフルエンサーだ。
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陰キャ、インフルエンサーになる
インフルエンサーの中ではフォロワーが少ない私にも毎日、インスタグラムには「いつも応援してます!」「憧れます!」そんな有難いDMが届く。私なんかに温かいメッセージを送ってくれる人がいる。それが私にとってはとても嬉しく、励みになるのでよく見返している。
ある日、私の元に一通のDMが届いた。メッセージの1文目は「お前まじできもいよな」から始まる。いつもと様子が違う、何かおかしい。DMを開封すると私を中傷する言葉が並んでいた。そして締めくくりには「死ね」という言葉。
この手のアンチDMを貰うのは初めてではなかった。普段なら気に止めることもないが、このDMに対してはそうはいかなかった。送信者のアカウントは情報が一切なく、身元が全くわからないが、私はこのDMの送信者を知っているという確信を持った。そしてこの一通のDMを開いたことから自分でも目を背けたくなる過去が次々とフラッシュバックすることとなった。
誘拐きっかけの転校から始まった陰キャライフ
小学校1年生、両親と桜の木に見守られながら東京都町田市の小学校に入学したが、その矢先に、4つ離れた姉が誘拐された。姉は無傷で無事に我が家に帰ってきたが、今後の安全のためにも急遽引っ越すことになった。
引っ越し先は父親の実家がある東京都新宿区の新大久保という街だった。私は父親が卒業した小学校に小学2年生の4月に転入した。はじめましてとクラスの生徒の前で挨拶をする。私は2年生ながらに「歓迎されてない」その雰囲気に気づいた。無視をされることは当たり前、靴が失くなる、黒板に悪口を書かれる、そんな日々が続いた。精神はボロボロに傷ついていたが、学校を休むことは許されなかった。6年生になった頃、限界が来た。ついに耳が聞こえなくなってしまったのだ。
人が変われば環境も変わるはずと考え、公立中高一貫校を受験し入学した。まっさらなところから始められる! そう期待していたが、やっぱり私はダメだった。学校という「普通」が私には難しすぎた。ご飯を食べるのも休み時間もいつも一人。おはようと挨拶する相手も特にいなく一日中一言も喋らずに下校することも珍しくなかった。男子生徒が学校のバルコニーで私の名前を呼び「クソ陰キャだ」と笑っていた記憶もしっかり残っている。そして一生忘れねえからな。
ここまで読んで、私を地味でコミュニケーションを取ることが苦手、もしくは性格に難がある人間なんだろうと感じ取った人も多いのではないだろうか。性格の点については多少認めざるを得ないが、実は私はどちらかと言えば活発にコミュニケーションを取る方で決して地味な存在ではなかった。
というよりは、めちゃめちゃ目立つ学生だったと思う。
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