民衆信仰「修験道」の過去・現在・未来(上)
修験道あるいは山伏というと、ほら貝を吹きながら白装束で山道を駆け巡る、という光景を思い描くかもしれない。
そのイメージは決して間違いではない。けれどもその奥には、日本人の深層に流れる自然信仰があり、それは現代も脈々と息づいていることについて、「里の哲学者」内山節さん、本山修験宗総本山聖護院門跡門主の宮城泰年師、金峯山修験本宗長臈で林南院住職の田中利典師の3名が語りつくした『修験道という生き方』(新潮選書)が注目を集め、修験道への関心も高まりつつある。
そもそも修験道とは、山岳信仰とは何なのか。それはこれまでの日本人とどう結びついており、現代人に何をもたらすものなのか――鼎談者の1人である田中師に話をうかがった。田中師は1955年、京都府生まれ。龍谷大学、叡山学院を卒業。現在は種智院大学の客員教授も務めている。著書に『よく生き、よく死ぬための仏教入門』(扶桑社親書)、『体を使って心をおさめる 修験道入門』(集英社新書)などがある。
修験道「4つのポイント」
――「修験道」とは一体何なのかについて、田中先生は以前から4つのポイントを挙げておられます。まず第1に、それは山の宗教、山伏の宗教であり、大自然が道場であるということ。第2に、実修実験、修行得験の宗教であるということ。
田中利典:自分で体を使って行じ、「しるし」を得ていくという、実践主義の宗教です。
――第3に、「神仏習合」であるということ。そして第4に「優婆塞(うばそく)」、つまり在家の宗教である、民衆の宗教であると定義づけられています。
田中:今回の本では、修験道そのものを説明するのではなく、修験道とは日本でどんな位置づけにあるかを明らかにしたいという、共著者の内山節先生(哲学者)の意図がおありになり、それは我々にとって大変ありがたいことでした。だから本の中では、修験道概論的なお話はしていないんですが、読んでいただければだいたいのところは分かると思うんです。
――読んでまず思ったのは、「風土性」ということに相当言及されているということでした。
田中:山尾三省さんという人は(編集部注・詩人。1938年東京生まれ、2001年死去)、大峯山の奥駈修行もしたことがある人で、土というものにこだわった方でした。晩年は屋久島に移り住んで、土着に生きた。
私はこの三省さんの土とか土着の話に感銘を受けましてね、修験を語るときに、それは風土に培われたものである、と言っているんです。風土が、修験のような極めて土着で日本的な民族宗教を生んできた、と。
内山先生がもともと山伏への憧れがあったというか、近代以前からあるような共同体の中で培われた、修験的な生き方というのにどこかで目覚められていて、わざわざ群馬県上野村に移り住んで畑を耕し、里山に生きるという生活をしておられるのも、山尾三省さんとは違った、現代の風土に準じる生き方なので、お互いに親和性があって話が進んだと思います。
日本の風土が持つ「DNA」の強さ
――面白いと思ったのは、日本の風土が持つDNAというのは、そこに住むといわゆる日本で生まれ育った人間でなくても理解してしまう、というお話でした。
田中:あれは、この本の中でも結構コアな考え方ですよね。
ただ問題は、自分たちがこれまで抱えてきた風土とか文化とか歴史とかいったものを、明治以降の近代化の中で切り捨ててきていることだと思っているんです。そこを取り戻すことが現代日本の第1の課題で、それをベースに物事を考えていく必要があるのではないか。
もともと日本は、いろんな民族が移り住んできて、日本列島の中で日本民族らしきものをつくってきたわけですね。それは、朝鮮半島とか大陸の人たちとはDNA的にも違うという研究が最近なされているように、日本人はたくさんの種類の染色体を持っている極めてまれな民族なのです。
北から入ってきた北方圏の文化と南からの南方圏の文化がほどよく混ざり合い、そこに大陸から文化が入ってきて、重層的な民族や文化を、この列島で、この日本の風土で生み出した。それが、縄文、弥生を通じて日本を形づくってきたわけです。
今でこそ「国」という単位で考えるから「インバウンド」だとか「移民」といった言葉遣いになるけれども、そうなると、もともと日本はどうやってできていったのかという視点を忘れてしまいがちになってしまいます。しかしこれは、思い出した方がいいことだと思いますね。
――そうした日本の持つ重層性が、その後の歴史の中で、異質なものが入ってきてもそれに潰されることなく、受容できるものは受容するという形をとることができた理由なのでしょうね。
田中:そういう、受容という形で人々がこの列島に住み着いてきたという、「三つ子の魂百まで」みたいなものがずっと続いてきているところはあると思います。
その意味で面白いのは、キリスト教もカソリックの時代までは土着のものと融合しながら発展してきた歴史があるじゃないですか。私はずっと、キリスト教イコール一神教だと思いこんでいましたが「サンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼道」(編集部注・キリスト教の聖地であるスペインのサンチャゴ・デ・コンポステラを目指す道。世界遺産)を歩くと、そこらじゅうにマリアさんと聖ヤコブがいて、信仰されている。まるで観音様やお地蔵様、お不動様みたいな感じなんです。だからカソリックの時代は、土地にあるものを融合しながらキリスト教は広がっていったんだろうと思うのです。ところがプロテスタントになってから、聖書原理主義みたいになって、ある種のリセットが起きることになる。人類の歴史にはそういうところがあるんでしょうね。
日本は、神と契約する宗教というものは育たなかった。やおよろずの神、という発想ですから、自然と神と人間が同心円の中にいるわけです。ところがキリスト教は、同心円の外に究極の存在であるゴッドがいるわけで、そういう違いはあるのかなと思います。
山は「特別な存在」
――やおよろずの神というのは、原始的には多分アニミズムから始まり、それがずっと続いている。中でも山というものに対する日本人の思いというか、そういうのが山岳宗教になり、修験になっていくという流れがあるわけですよね。
でも、よくよく考えてみると、確かに国土の7割は山ですが、一方で、日本は海にも囲まれています。なぜ山岳宗教が生まれて海洋宗教は生まれなかったんでしょう。
田中:「まれびと」として海から異人が渡ってくるという信仰はあったと思うんですが、祖霊信仰のような形で発展をしなかったので、その「まれびと」は外から来る聖者みたいな意識だったのではないでしょうか。もしくは、ここから渡ってそのまま帰ってこないという、「補陀落渡海」みたいなものとか。
しかし山というのは、常に自分の目の前にあって、自分が帰るべき場所なんです。死んでも祖霊になって、いずれ神となって帰ってくるみたいな考え方ですね。そういう山とか森とか里の循環が、日本のいろんなものを育んできたような気がしますね。
そういう意味では、山の存在感は日本人にとって非常に大きいものである。もしくは、山を象徴とする自然。もちろん海も自然なんですが、日本人にとっての山に対する思いというのは、自然の延長であり、神の延長であり、祖霊の延長であり、宇宙の延長である、ということなんだろうと思いますね。
――それはもうかなり昔からですよね。例えば大神神社(奈良県)のご神体が山そのものであるということから考えてみても、仏教が入ってくる以前から、山岳信仰は日本人の中にあった、ということですね。
田中:仏教以前の神が持っていた信仰というのは、神という言葉もなかったし、概念とか理念とか偶像とかもなかったわけでしょう。それが仏教という広大深遠なる教義体系と、仏像や寺院建築などのいろんなものが入ってくることによって神道も触発され、神という概念ができ、さらには仏教的になっていって神仏習合を生んでいく、という流れがあったと思います。
大事なことは、本の中で内山先生もお書きになっているように、民衆の信仰、ということです。民衆の文化と、国家体制とかいったものは常に相反するものがある。特に日本は、長い歴史を持ついろんな国の中でほぼ唯一、ちゃんとした国家というのができたように見えながらきちんとした中央集権国家体制は明治までできていなかった。一方で古代から続くような共同体社会が近代まで残ってきたところがあり、そこに庶民文化が脈々と生きていた。それを修験が支えてきたという視点は、あまり明治以降の文献研究では対象になっていない世界なのです。そのあたり、共同体理論が専門の内山先生からみると、たいへんおもしろい修験道や民衆宗教への切り口だと思います。
「明治禁令」の影響
――明治の修験禁止の段階で、国内に修験者が17万人もおり、当時の人口からすると相当の割合だったということですが、やはり近代化の入り口で1度禁止されたということで、山伏や修験者の存在というのを消してしまった。
田中:特に関東は完全に消してしまった。関西はまだそういうのが消えずに残りましたけど、関東は本当に消えちゃいましたからね。
例えば大山参りにしても、その信仰は富士講です。富士講は八百八講、江戸八百八町に1つずつ講があったというぐらい、江戸の町民には根付いていたわけですが、それを導いたのは「御師(おし)」と呼ばれたいわゆる聖、山伏たちです。
その富士講に付随するものとして、富士山までは行かないけど大山に詣ろうとか、高尾山に詣ろうとか、富士山への中途での信仰で盛り上がっていったわけです。それはまさに修験の世界、里修験の世界だったはずなんですが、江戸期に栄えたそういったものが、明治になって絶滅するんです。
――それはやはり禁令が大きかった。
田中:そう思います。
関西の場合、大峯信仰も多くの関係する修験寺院が廃寺になり、金峯山寺も一時期神社化したとはいえ、大峯参りの信仰は続いていて、その力が金峯山寺をお寺に戻したと思いますし、組織の形が若干変わったところはあるにせよ、昔のものを関西では留めることができたわけです。
ところが関東は、修験寺院が絶滅するんです、本当に。羽黒山にわずかに残っていますが、あとは富士山、大山、日光、高尾、筑波、三峯といった霊山のほとんどで修験寺院が消えた。本当に根幹から廃絶させられた。
――明治以降、東京や関東から文化が広がる時代になっていくわけですが、その入り口で関東から修験が消えたというのは大きな出来事だったんですね。
田中:そうなんです。例えば植島啓司さん(宗教人類学者)や鎌田東二さん(宗教学者)、中沢新一さん(宗教学者)などが語る修験は、神社の修験なんです。なぜだろうと考えると、それは関東には神社しか修験がないからなんです。
修験は、神仏習合で仏教教義をベースにしたものですから、もちろん神社の部分もあるけれども、修験道イコール神社というのは近代以降の価値観で見ていることになるわけです。それは、修験の寺がなくなったからなんです。
たとえば、上野の寛永寺。ここは東照大権現(徳川家康)の出先機関でしょう。明治政府はこの大権現が怖かったようで、徹底的に寛永寺をいじめるんですよね。彰義隊が敗北して明治新政府が確立すると、境内に競馬場を作ったりして、権現を恐れて徹底的に破壊した。ですから、修験も含めて関東一円は権現信仰も絶滅するんです。
あと、伊勢もそうなんです。実は伊勢にも、かつては修験がありました。ところが明治以後、国家神道の1つのメッカになることで、伊勢の修験はことごとく壊されるんです。だから、今は跡形もほとんど残っていない。特に関東一円と伊勢では、修験は目の敵のようにしてつぶされていく。
そんな中で近代以降の歴史があって、修験は学問的にも文化的にもあまり評価される対象ではなくなり、民俗学的な形でしか研究されなかったわけですが、この鼎談本では、民衆側から見た日本の宗教史とか文化史を語る上で、修験というものをきちんと評価しないと日本人の精神文化史が理解できないのではないか、ということを書いています。
――そうなると、やはり修験とは何かということをどう捉えるかという問題になりますね。
田中:その部分ではいろいろ意見が分かれるところなんですが、民衆に支えられた日本人の信仰のよりどころみたいなものを引っくるめて、全部修験と呼んでもいいのではないか。そういう立場で書いた本です。(つづく)