私は人殺しですか――オウムでサリン製造「土谷正実」未亡人が明かした最期の肉声

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オウム「新実智光」「土谷正実」未亡人が明かした最期の肉声(2/2)

 死刑執行から1年、オウム真理教死刑囚の未亡人たちが夫の最期を明かす。計28名の殺人を犯したオウムで、そのすべての事件に携わった新実智光・元死刑囚(享年54)は、麻原彰晃への決別を日記に綴っていた。その新実が生前、教団で最も慕っていたのが、土谷正実・元死刑囚(享年53)だった。

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「私の夫の場合は、最期まで事件への実感はなかったと思います」

 代わってそう述べるのは、その土谷の未亡人である。

「重大なことをしたという認識はもちろんありました。ただ、それがどこまで実感を伴っていたかというと……。面会でも事件について語ったことはありませんでしたし、遺品の中に書き物はありましたが、事件のことにはまったく触れられていませんでした」

 土谷は1989年にオウムに入信した。当時、筑波大学大学院化学研究科の学生だった“エリート”である。出家後は麻原の命を受けて化学兵器の開発に次々と成功。彼がサリンを作っていなければ無差別大量殺人は不可能だったに違いない。その土谷に特異なのは、オウム死刑囚で唯一、殺人現場にも立ち会わず、その具体的な計画も知らされぬままだったことだ。ひたすら大量殺人兵器の開発に専念していた土谷に事件の実感がないというのは、あながち弁解ではないのかもしれない。

 夫人が回想する。

「主人は中学生がそのまま大人になってしまったような人でした。良い悪い、人の好き嫌いの基準がはっきりしていて、一旦ダメということになると、100からゼロにいってしまう。普通なら、社会に出てそれが修正されるものですが、学生のまま入信してしまいましたからその機会もありませんでした」

 裁判でも二審が終結するまで帰依を貫いていた。

 夫人と土谷とは、事件以前からの知人。高裁判決後、獄中の土谷から手紙が来たことをきっかけに交流が始まり、2008年に籍を入れた。

「“教祖のことをどう思うか?”と聞かれたんです。私はオウムとは何の関係もありませんから“ペテン師に違いない”とはっきり言いました。すると彼は一夜で反転。“麻原は私利私欲の塊だった”と言うようになったんです。ちょうどその頃、裁判でも麻原の自己保身の姿勢が明らかになったこともありますが……。その後は、最期まで麻原とは心が離れたままでした。法廷では厳しく批判するようになったし、面会の時も、彼のことになると珍しく感情がむき出しになる。“嘘つき”“詐欺師”“昔に戻れたらぶっ殺してやる”と口汚く罵っていました。極論を言えば、主人には誰か1人だけいればいい。信頼する人と出会うとその人がすべてになってしまう。麻原を崇めるようになったのも同じような理由だったのだと思います。それがたまたま大量殺人者だった……。本当にあってはならない組み合わせだったと思います」

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