櫻井翔、大野智の「努力する力」とは ジャニー喜多川氏が遺したもの
努力が決め手になる
ジャニー喜多川氏の死を受けて、メディアやネットでは、ジャニーズに関する記事や議論が急増している。多くの人が感嘆し、また興味を持ったのは、ジャニー氏の先見性だろう。なぜ「この子は化ける」とわかるのか。子供の時点で、イケメンになることがわかるのか。
しかし、生前、ジャニー氏は取材に応じて、重視しているのは「人間性」だと答えている。
「やる気があって、人間的にすばらしければ、誰でもいい(※1)」
キレイごとに聞こえるかもしれないが、この方針は所属タレントに徹底されていたようだ。WEBマガジン「チェリー」編集長の霜田明寛氏は、新著『ジャニーズは努力が9割』(8月1日発売)の中で、こんなエピソードを紹介している。今でこそ書き手の側にいる霜田氏だが、子供の頃にはジャニーズに憧れ、18歳の時にはジャニーズJr.のオーディションを受けた過去もある。合格とはならなかったものの、ジャニーズへの愛は冷めることなく、「ジャニーズ・ウォッチャー」としての日々を送っているという。
その霜田氏は、20歳の頃、元男闘呼(おとこ)組の岡本健一の舞台に出演する機会を得た。その時の出来事である(以下、引用はすべて『ジャニーズは努力が9割』より)。
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「稽古期間も3週間を過ぎ、だいぶ打ち解けてきた頃、休憩場で2人きりになった瞬間を見計らって、ずっと言おうと思っていたことを、岡本さんに伝えました。
『僕、ジャニーズJr.になりたいんです』
笑われるかと思っていました。『その顔で?』『その身長で?』『その歳で?』……何を言われるんだろうと怖くもありました。そもそもオーディションで1度落ちている身。自分が何者でもないということをあらためて突きつけられる可能性のほうが高かったと思います。
しかし、岡本さんは僕の目をまっすぐに見て、こう言いました。
『努力できる?』
岡本さんは、ルックスや運動神経のような生まれ持った才能ではなく、『努力できるかどうか』の一点のみで、ジャニーズ入りの資格を問うてきたのです。岡本さんの目は真剣で、僕の直訴を一笑に付したりはしませんでした。
現在持ち合わせている能力で判断するのではなく、未来を見て『やるのか、やらないのか』を問う。それは、ジャニー喜多川が人を選ぶときの『やる気があれば誰でもいい』という選抜基準と、驚くほど一致しています。(略)
ジャニー喜多川がそうであるように、岡本さんは夢を笑わない大人でした。僕が初めて出会った、どんなに無謀な夢を語ったとしても、人の夢を否定しない大人。
岡本さんは、教えてくれました。ジャニーズの人たちが、小さい頃からどれだけ努力を重ねてきた人たちであるかを。(略)
岡本さんをはじめとするジャニーズは、天性の才能を持って生まれてきたから、今の活躍があるわけではない。努力を重ねてきたからこそ、活躍できている――。
ジャニーズは努力によって特別になっていった人たちである――」
こんな考えに至った霜田氏は、ジャニーズのタレント、関係者らの過去の膨大な資料や発言録を「努力」というキーワードで読み解く作業を始める。「ジャニーズは努力が9割」と題したWEB連載を昨年から開始し、刊行のための詰めの作業を行なっている最中に、ジャニー氏の訃報が飛び込んできたのである。
同書に「努力の16人」として取り上げられているのは、中居正広、木村拓哉、長瀬智也、国分太一、岡田准一、井ノ原快彦、堂本剛、堂本光一、櫻井翔、大野智、滝沢秀明、風間俊介、村上信五、亀梨和也、伊野尾慧、中島健人。
一口に「努力」といっても、その形は実にさまざまだ。同じ嵐のメンバーであっても、櫻井と大野のそれはかなり異なるようだ。
よく知られるように、櫻井はジュニア入りした後も学業を優先していた。
「無遅刻無欠席を貫き、試験のひと月前からは、仕事を休むことにしていました。そうすると、踊る場所が後ろになったり、仕事に呼ばれなくなったりしたそうですが、本人は『くやしいというより、むしろそうじゃないとおかしいと思った(※2)』と語っています
しかし、高校3年生のときに嵐のメンバーに選ばれてからは当然、そのような中途半端なスタンスは許されません。1999年にワールドカップバレーのイメージキャラクターとしてデビューした嵐は、全国各地で行われるバレーの試合会場に中継のために行かなければなりませんでした。
試合が終わると、他のメンバーはそのまま宿泊しますが、櫻井だけはひとり東京に帰り、次の日の高校の授業に朝から出て、授業が終わるとひとりで新幹線に乗ってバレー会場へ戻る……といったことも普通にこなしていたといいます(※2)。
そんな努力の甲斐あって、慶応義塾大学経済学部に無事進学。しかも4人にひとりは留年すると言われるこの学部を4年で卒業します。大学4年の後期試験とドラマの撮影が重なって大変だった時期を、『あれほど大変な時期を乗り切れたのだから、今度も大丈夫だ、といまだに思える拠り所(※3)』と振り返る櫻井。
参考までに挙げておくと、同時代に同じ慶応の経済学部に通っていたオリエンタルラジオの中田敦彦は、卒業までに6年かかっています。中田がブレイクしたのは大学生活の後半、櫻井が入学した時点ですでに嵐だったことを考えてもやはりすごいことです」
夢をかなえるための準備
一方で、大野の「努力」は別の形をもつ。そもそもアイドルを目指しておらず、「ジャニーズって歌って踊って、何だか大変そうだと思ってたから(笑)(※4)」という彼がなりたかった職業はイラストレーターだった。
「1994年、中学校2年生の時に、母親がジャニーズ事務所に履歴書を送り、いやいやジャニーズ入り。しかし、それから5年間は『踊りを極める』という目標を自ら設定し、努力を重ねます」
特筆すべきは、嵐のメンバーとしての努力を欠かさない一方で、自分のやりたかったことを忘れなかった点だ、という。
「嵐としてデビューし、活動していくという大きな流れには逆らわない一方で、流されていない時間の使い方もしていたのです。忙しい日々をおくる中、プライベートの時間に絵を描いたり、フィギュアを作ったりという創作活動を続けていきました。もちろん、嵐の仕事もきちんとやりながら。特に誰かに公開する予定もなく、勝手に、です。
嵐としてデビューする前、京都の舞台の楽屋でも絵を描き続け、デビューをして数年を経た後、2006年の年明けからはフィギュア制作もはじめます。舞台期間中も、休演日はもちろん、大阪公演のホテルの中でも、1日2回公演のあとでも作っていたというのですから、その熱意とかけた時間はかなりのもの。(略)
仕事のリフレッシュとしてはハードすぎる作業時間。大野は、嵐としての仕事が忙しくても、創作活動をやめなかったのです。しかも、誰かに強要された締め切りがあるわけでもない状況で、大野は『2006年9月までにフィギュア100個を作る』と自ら期日を決めて創作をしています。できなかったら、『お酒を断つ』『まゆ毛を剃る』と自分で自分に罰ゲームを設定し、友だちにも宣言。というと冗談めいて聞こえてしまいますが、『その日までに出来なかったら、やっぱ自分に嘘つくことになる(※5)』という発言からは、ストイックさがうかがえます」
こうした大野について、霜田氏はこう分析している。
「おそらく大野には、“努力”はおろか(将来の夢のための)“準備”という意識すらなかったことでしょう。他人が振り返れば、アートに費やしていた時間は準備にも感じられますが、『好きなことを必死にやっていた時間』が積み重なり、夢が実現したとき、結果的にそれまでの時間は“夢のための準備”と呼ぶことができるようになるというイメージ。(略)
アイドルという、様々な事情にがんじがらめになっているように見える立場の人ですら、与えられた仕事で成果を出し続けた人には、自分のしたい仕事ができたり、休む意志が通ったりという“本当の自由”がやってきます。
大きくは流されながらも、大事なところは流されない強い意志を持つ。
そのバランスで大野は『ジャニーズって大変そう』と思っていた少年から『嵐でよかった』と心から思える大人になったのです。
大野智もこう言っています。
『頑張った分だけ自由自在になれる』と(※6)」
ルックスや運だけではトップには行けない。ジャニー喜多川氏やその教え子たちの言葉には、人生を変えるヒントが詰まっている、と霜田氏は考えている。
※1 「Views」(1995年8月号)
※2 嵐『アラシゴト』(2005年7月、集英社)
※3 「anan」(2017年10月18日号)
※4 「週刊SPA!」(2010年8月17・24日合併号)
※5 大野智『Freestyle』(2008年2月、M.co)
※6 「TVガイドAlpha EPISODE F」(2017年8月)