ADHDのキャバクラ嬢が借金完済し「いくら稼いでいるのか分からない」境地に至るまで

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「東京で失敗したんだろうな」

 話をホノカさんの学生時代に戻す。就活ではレコード会社を受けたが全滅し、職業訓練所の就職相談へ行くと、落ちこぼれコースに振り分けられてしまった。

 そこからシステムエンジニアになったが、大学1年の頃からパソコンから遠ざかっていたのと、元々細かい作業が苦手なため全く向いておらず、研修の時点でうつ病になってしまった。しかも、月の手取りは12万円。当時、家賃が7万7000円したので、当然生活費は足りず、親にお金を借りた。

「その後、一旦福岡に戻ることにしました。親は安心していたようですが、地元の友達からは『東京で失敗したんだろうな』と、マイナスイメージを持たれていたと思います」

 地元に戻り、派遣でアパレル店員として働いた。有名ブランド店に派遣されたこともあったが、制服代わりにそのブランドの服を着なければならず、自腹で購入しないといけなかった。社員割引がきくとはいえ、大きな出費だった。

 また、完全に体育会系の世界で、店長会議で「あの子の顔やスタイル、うちのブランドのイメージに合わないから辞めさせて」と告げられ、店長が言いにくそうにその子をクビにする場面も目撃した。その後、アパレルは辞めた。
 
 その次は製菓店にて派遣で働くも、そこでも人間関係がうまくいかず、信頼していた後輩に裏切られる形になってしまった。

「ちょうどそのとき、東京でアパレルの仕事があると聞き、これはもう一度東京に行けということだなと思って、二度目の上京をしました。でもやっぱり、人間関係がうまくいかなかったのと、ADHDの特性から店長に『障害者』呼ばわりをされました。給与も額面18万で、そこから税金が引かれ、自社ブランドの服を買うと生活できなくて、リボ払いがどんどん膨らんでいきました。

 結局3カ月で辞め、事務の仕事に転職しました。でも、サービス残業もあってお給料は相変わらず18万円。どんどんリボ払いが雪だるまみたいに膨らんで借金地獄に陥り、残業のせいでアルバイトのキャバクラにも出勤できないので、事務の仕事を休んでキャバクラに出勤し、なんとか返済しました」

 そして、事務職をやめ、今のキャバクラ勤務に至る。借金を完済した今、ホノカさんはお金に関しての不安はない状態だ。そう、あの「フンコロガシ」と大学で学んだマーケティング術を駆使し、とある方法で稼いでいるのだ。

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