必要は発明の母のような顔をしているが(古市憲寿)

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 雑誌「Wedge」を読んでいたら、英語教育改革にページが割かれていた。大学入試において、これまでの「読む」「書く」「聞く」に加えて、特に「話す」能力が問われるようになるというのだ。

 面白かったのは記事の最後に掲載されていた成毛眞さんのインタビュー。成毛さんによれば、英語が必要な日本人なんてせいぜい1割程度。それも生きた英語を仕事の中で身につければいいと主張する。

 正しい意見だと思う。ほとんどの仕事は日本語で事足りるし、英語が必要になっても自動翻訳の手を借りれば何とかなる場合が多い。アメリカで仕事をしていた知人は、対面での会議も全てチャットにしてもらい、ほぼ自動翻訳で乗り切ったと言っていた。

 しかし難しいのは、「必要」か「不必要」かでいえば、英語に限らず、もはや教育のほとんどは「不必要」だということだ。ネットとスマホの普及で、記憶力は決定的に「古い能力」になった。

 昔はただ知っていることが称賛の対象になったものだが、今ではテレビのクイズ番組でさえ「今夜はナゾトレ」のように、前提知識がなくても瞬間のひらめきで解けるような問題が中心の番組に変わりつつある。ひらめきが重要な脱出ゲームの流行を見ても、これは世界的な趨勢なのだろう。

 その意味でいえば、学校で習う多くのことは「不必要」になってしまった。ほとんどの学習内容は人生で役立たない上に、必要なら検索をすれば済む話ばかりだ。

 教育論では無視されがちだが、多くの人は学校で習ったことを覚えていない。たとえば植物の維管束のうち、光合成で作った養分を運ぶ管の名前を覚えていますか? 師管と道管のどちらでしょうと2択にされても即答できない人が多いのではないだろうか。

 台風の定義(中心付近の最大風速は秒速何メートル以上?)、地層の基礎知識(地層ができた環境を知る手がかりとなる化石を何という?)など、中学理科で習ったことを完全に覚えている人はどれくらいいるだろう。

 そもそもなぜ忘れるかといえば、使っていないから。一部の専門家を除き、師管と道管を日常語にしている人は少ない。

 語学も同じだ。たとえばフィンランドの人は英語が堪能。それは英語が必要だから。フィンランドのような小国では、英語が使えないと世界のニュースも手に入らないし、最新ゲームもプレイできない。高校くらいから学校の副読本も英語になるという。英語が使えないと暮らせないのだ。

 日本では英語談義こそ多いが、多くの議論は真剣さに欠ける。本当に日本の人口が減り、経済が壊滅しだしたら、誰もが自然に英語や中国語を話せるようになるはずだ。それか爆発的に自動翻訳が普及するか。必要に迫られない限り社会は変わらない。英語教育改革の効果は限定的だろう。

 ところでつい最近も英語の話題を書いた気がするのだが、国中の記憶力が落ちているはずなので気にしないでおこうと思う。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年7月11日号掲載

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