ネトウヨ・パヨクに見る「話せばわかる」の限界(KAZUYA)
新潮新書から『ネトウヨとパヨク』という、刺激的なタイトルの本が出版されました。
「ネトウヨ」と罵られることがある僕からすると、大変興味深いものです。著者の物江潤氏は「ネトウヨ・パヨク」を悪口の一種だとしており、彼らが自称する「保守・リベラル」と蔑称として他者が使う「ネトウヨ・パヨク」の違いは、対話ができるかどうかだとしています。
つまり対話ができないなら後者と認定されても仕方ないと。逆に対話が可能ならネトウヨでもパヨクでもないということです。
対話では、次の三つのルールを守る必要があります。
「自らの主張は仮説にすぎないと確信すること」「人の発言権を奪わないこと」「どれほど奇妙奇天烈に思える主張でも、理由付け(論拠)や事実で、その良し悪しを判定すること」
特にTwitterを見ていると、物江さんが規定するようなネトウヨ・パヨクが一定数いますし、やり取りの流れを追うと、とても対話可能とは思えません。例えば、何が起こっても安倍政権に結びつけるパヨク、事件のたびにとりあえず在日と叫ぶネトウヨ。結論が決まりきった上で、基本的に相手(敵)をバカにしていますから、この両者にあるのは対話ではなく罵り合いです。
物江氏はフィールドワークとしてネトウヨ・パヨクと対話を試みますが、彼らの無尽蔵のエネルギーに困惑したと言います。僕自身、一部の極端な人たちのエネルギーに感心していたので、ものすごくわかります。彼らはいつ寝ているのかと思うほどTwitterに張り付いて書き込みを続けており、140文字すら読んでいるか怪しい意味不明の批判を繰り出してきます。
政治的な指向を背景にした「正義の戦い」を彼らは繰り広げます。それは一種の信仰で、対立的な意見は「敵」なのだから、論理的な対話ではない単純な罵倒の言葉も正当化してしまいます。
現実社会では全く通用しないのに、ネットが彼らを手のつけられない存在にしていると物江氏は言います。論理がない断言を繰り返すことで、人々が感染していくのです。カルト宗教の手口のまんまですが、「説得力のない言葉だから説得できる」という奇怪な現象が生じています。人ははっきりした意見が好きですし、それに流される感覚も十分理解できます。しかしその論拠を考えなければ。
地震が起きる度に「人工地震だ」と言う人がTwitterでも見受けられますが、一見アホだとしか思えない陰謀論も反復することで拡散していくのです。
結局ネトウヨ・パヨクと呼ばれるような極端な存在は表裏一体であり、主張が違うだけでやっていることは同じだと気付かされます。
注意しなければいけないのは、誰しも陥る可能性のある現象だということです。ある事象ではしっかり論理的に考えられるのに、自分が熱い想いを寄せる問題では「信仰」から論理を度外視してメチャクチャなことを言っていないか? 自分自身を省みて気をつけたいと思います。