【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(6)

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 2011年3月11日の東日本大震災が起きた後の夏、福島県浜通りにある筆者の郷里の友人から、こんなうわさ話を聞いた。

「夜になると、海から “大勢の人”が浜の波打ち際に歩いてくるそうだ」

 海岸部の津波犠牲者にまつわる幽霊話らしかったが、うわさはうわさで、その話の主が誰なのか分からず、実際に見たという人に会ったこともなく、うわさはすぐに立ち消えた。

「人を車ではねたと思ったら、誰もいなかった」

「店の求人を出しても、幽霊話のせいで人が集まらない」

「霊が後ろから追ってきて、『津波が来るから逃げろ』と言うそうだ」

「タクシーが客を乗せたら、消えていた」――。

 シリーズで紹介してきた宮城県石巻市の遺族、鈴木由美子さん(50)らも耳にしたことのあるうわさのいくつかだ。どこの被災地でもあったであろう話が、津波で3600人余りが犠牲になった最大被災地の街では早くからニュースとして取材、発信され、ネット上でも怪談めかして語られた。それはいまだに続く。

 小学6年だった三男秀和さん=当時(12)=を津波で亡くした由美子さんら、遺族たちが同市門脇町の浄土宗西光寺を会場に月命日ごとに集う「蓮の会」に、今年の3月11日を前にして、インターネットのニュースメディアの取材者が訪れた。

「幽霊話、ありませんか」といきなり聞かれ、由美子さんが「いますよ、いつだって一緒にいるんですから」と答えると、さらに質問が、「その根拠は何ですか?」「現実に(霊現象が)起きたことがありますか?」と畳みかけられた。遺族の仲間が集う場で、震災から8年の心情を尋ねる訳でもなく、「これは興味本位の取材で、相手の気持ちはどうでもいいのだな」と察せられ、それ以上話すことをやめた。すると翌日、「取材できますか。自宅を撮らせてもらっていいですか」とまた電話があり、そうまでして時間を割かせようとする理不尽に苦痛を感じて断ったという。

 宮城県内の別の遺族たちからも筆者は、

「たとえ幽霊でもいいから(亡くした家族に)帰ってきてほしい。それもかなわないからつらい」

 と、いまも葛藤が続く心の内を聞いていた。その現実こそを伝えてほしいのに、尽きない幽霊話への興味関心は、被災地で懸命に生きる人々を見ようとしてくれない「遠い外からの目線」に思われ、その上に「遺族に精神医療ケアが必要なことの表れ」といった見方までさまざま語られてきたことに傷ついてきた。「家族を亡くした当事者の気持ちは忘れられている」(ある遺族)との葛藤とともに。

「世の中にはいろんな人がいて、科学的に分析しようとしている人たちもいるけれど、私たちにはそんな情報など必要ないし」

 と、由美子さんの蓮の会の仲間、青木恭子さん(60)も言う。

遺族の救いを願い

 先立たば 送るる人を待ちやせん 花のうてなの なかば残して

(大意は『私が先に死んだなら、送ってくれるあなたを待っていましょう。浄土の蓮台(仏の座)を半分空けておきます』)

「倶会一処」とも言う。死後、魂となって往く世界での約束を語る古歌(浄土宗のご詠歌)を、シリーズ2回目で紹介した。秀和さんを亡くして自らも死を願った由美子さんの心を救ったのが、枕経の座で西光寺の樋口伸生副住職(56)がこの歌とともに伝えた「必ず、また秀和に逢える」という言葉だった。

 由美子さんは8年前の出来事とその後の思いを2017年3月、蓮の会との交流で縁のできた北海道・小樽仏教会の依頼で、広報誌『あ』に寄稿した。それまで遺族の仲間との文集につづったよりもはるかに長い、3000字を超える長文で、

「家でも仕事先でも、思い出すことをその度にメモしながら書いた」

 という。

 そこで「先立たば…」の歌を、

〈今はこれが私の目標です。最大の目標なのです〉

 とつづった。

〈「子供を亡くした母」である立場の今の私だから出来る事は何かを考えました。樋口副住職が私に力をくれた言葉を、苦しんでいる遺族の方々にも聞いてもらいたいと思いました〉

〈哀しみが押し寄せてきて、仏壇の前に長い時間は、いることができません。同じような声を遺族から聞きました。せめて一ヶ月に一度は心からの祈りと供養ができればと願い、樋口副住職に相談し、「蓮の会」を立ち上げました。毎月十一日の月命日に、大切な人を亡くした遺族の方々とお念仏を唱え、哀しみも愛しさもすべて阿弥陀様にお預けし、我が子をお願いして、そして必ず再会できますようにとお祈りしています〉

〈最愛の我が子を亡くして、とても一人では抱えきれない悲しみを、みんなで繋がって分かち合い、支え合って生きる場所を作りたかったのです〉

 蓮の会には、樋口さんのつながりで全国から若手僧侶が遺族との交流に訪れる。機会があるごとに由美子さんは、「遺族と最初に関わりを持つ和尚さんたちは、その後の遺族の心の持ち方と生き方に大きな力になると伝えたい」と願い、語り合ってきた。小樽仏教会の依頼を引き受け、心から血を流すような痛みとともに書き上げたのも、その願いゆえだ。

 そうして重ねた縁から「お話を聴かせてほしい」という依頼も寄せられるようになり、由美子さんはそれを、遺族である自分の使命と受け入れるようになった。

 樋口さんの「また逢える」という言葉のように、その一言によって救われる遺族はたくさんいる。

「哀しみの中に子どもたちは生きている。哀しみ続けていいんだ。そして、自分が最期を迎えた日にまた逢える、蓮の葉の台を温めて待っていてくれるんだ――。その言葉が、どれほど私に生きる力をくれたか」

「世間でいう四十九日には――とか、百箇日には、一周忌の頃には、『哀しみが消える』『気持ちの整理がつく』なんてありえない。ずっと哀しいのは悲観なのでなく、愛しい哀しみを大事に抱きしめているからなのです」

 新たな災害も各地で相次ぐ。遺族と向き合う立場の人々に、自らの経験とともに語っている。

かけがえのない仲間

 年12回の月命日に由美子さんら遺族が西光寺に集う蓮の会は、震災翌年の2012年2月11日に始めて以来、1度も休んだことがない。慰霊法要と重なる3月だけは12日と決めてあり、法話とお祈りをしてくれる樋口さんが不在の日は、代理の僧侶が駆け付ける。子どもを亡くした遺族だけの分かち合いの場「つむぎの会」(仙台の自死遺族の会代表、田中幸子さん=70=が世話人)も石巻で毎月の最終日曜にあり、由美子さんと恭子さん、シリーズ5回目に紹介したよしえさん(仮名)ら、仲間が顔を合わせるのは月に2度。それも8年近く続く深い縁になった。

 大きな仏壇に、グラウンドで野球帽をかぶった秀和さんの写真がある。津波で被災した後、由美子さんが家族と暮らす家で、恭子さん、よしえさんの3人で一緒に話を聞かせてもらったのは今年3月2日だった。

「同じ哀しみがあるから、がんばって、とか言わなくても、お互いに気持ちが通じる」

「いつもは離れているのに、いつもそばの定位置にいて、一緒に立ち止まったり、『いまごろつらい思いでいるかな』と感じられる。いつも心配して、思っている」

「集いの場からの別れ際、現実に戻らなくちゃいけないのが嫌だけど」

「他の誰も気にすることなく、傷つけられることもなく、自然体でいられる、しゃべれる」

「これからもずっと、こうしていたい」

 そして、

「(死ぬ時が来たら)見送ってほしい」

「現世での別れは寂しいけれど、『(亡くしたわが子に)先に逢いに行くんだね』『あっちで逢えるんだね、よかったね』と言える」

 取材中、お客さんが訪ねてきた。3月11日が近づくといつも秀和さんに花を供えにきてくれる、小学生時代の同級生の男性が2人。あれから8年ということは、ちょうど成人を迎えた年ごろだ。若者たちは線香を上げた後、「3月11日はちょうど入社説明会なので、きょうお邪魔しました」

 などと近況報告を交えて語った。

 和やかに談笑していた由美子さんは、同級生たちが帰った後、「きょう、一緒にいてくれてよかった」

 と恭子さん、よしえさんに漏らした。以前は親御さんが付き添ってくれたが、長身の凛々しい大人になっていた。雰囲気も亡き子に重なったといい、

「きっと秀和は、友だちが忘れないで来てくれることが嬉しいと思う。もし私だけ1人家にいて応対してたなら、いろんな思いや気持ちがいっぱいこみ上げていた」

 その心中を、恭子さん、よしえさんも痛いほど分かっていた。夫と2人の男の子を津波で亡くしたよしえさんは、「同級生の年ごろの子たちが、卒業した、合格した、という話を耳に入れたくない」と言う。

「一口に8年というけれど、いまでも(震災前日の)3月10日に戻りたいと思う。一緒に買い物に行ったり、おしゃべりしたり、何も特別なこともない日だったけれど、もう一度戻りたい。家族に逢いたい」

 それでも、もうだめだと思い、どうしようもなく孤独に沈む時、

「夢に必ず夫が出てくるの。この間は、温泉に行った夢だった。ああ、そばにいてくれるんだな、何かある時に励ましに来てくれるんだな。そんな感謝がある」

 それも仲間にだから話せる。

秀和に導かれる生き方を

 由美子さんは、秀和さんの夢はめったに見ないという。

「でも夢の中で、同じ空間に一緒にいる気配は感じることがある。はっきりした姿ではなく、夢も昔と変わらない日常の夢。でも、ふっと目が覚めて、こちらの現実世界に戻ると、悲しくて泣いてしまう」

 夢ばかりではない。目覚めていても、「自分が空っぽになる」時間が怖いという。例えば、お風呂の時間。

「頭がふっと空白になる一瞬、ふだんは考えない震災当時の一番つらかったことがよみがえる。どんどん悪い方へ、哀しい方へ転がっていく」

 職場で一息つく休憩時間も、スマホを見たり、テレビの画面を眺めたり。布団に入る時は枕元に必ずクロスワードパズルなどを置いて、ひとりでに眠るまで続けた。哀しみの渦にどこまで沈んでいくか、自分でも分からないからだ。わが身を引き裂かれるような震災での出来事は、底知れぬほど深い心の傷を残した。いまもそれは塞がれることなく、癒されることなく、そのままに渦巻いていて、いつも自分をのみこんでしまおうとする。

「だって自分の命より大事なものをなくしたのだから、心と体に異変が起きるのも当たり前。苦しさのない生を選ぶなんてできない。苦しみも秀和への愛情なんだから。ある時、『わが子を亡くして13年になる』と泣いていたお母さんに出会って、ああ、同じくらい悲しいんだ、というのが分かった。覚悟ができたというか。そこから逃れるなんて、できないもの。『私の心と体は秀和でできていて、いつもずっと一緒にいる』という思いで毎日を生きている」

 由美子さんの話に、恭子さん、よしえさんも「そうだよね、私たちも」と頷いた。

 1分1秒も空白の時間をつくりたくない、という由美子さんはある決心をした。昨年5月から毎晩、飲食店の仕事から帰ってから机に向かい、遅くまで勉強に没頭したという。その日の取材の折にもらったのが、「終活アドバイザー」という肩書の名刺だった。通信講座を受けて民間の資格検定を受験し、同年8月に合格。

「エンディングノート作りの相談や講師をしたり、身近で終活を模索する人を手助けする活動をしていきたい」

 と笑顔を見せて語った。

「私も何かやってみようかな、と家で話した時、すぐに次男が『ほれ、これを見てみたら』と手に取って、ぽんとよこしたのが資格講座の本。偶然だったけれど、次男の手を借りて、秀和が新しい生き方に導いてくれたのかもしれない」

 子どもを亡くし、どうしたらいいかと悲嘆に暮れる遺族に出会ってきた。老親から病床で「延命をしないでほしい」と告げられて苦しむ家族もいる。家や財の処分、相続などで家族に悩み事を残したり、質素なお葬式を望んで身内から責められたりした人も多い。仏具や仏事のことが分からないという話もよく聞く。「死」にまつわるさまざまな経験をし、痛みを知った自分がやれる仕事なのでは、と思った。

「同じ遺族の仲間からもいろんな悩みを聞かされてきた。人生の最期の形について語り合い、これからをよりよく生きられるアドバイスができれば、人の役に立てる。樋口さんら、私を助けてくれた人への恩返しにできたなら」

 秀和さんにまた逢える日まで、導いてくれる道を歩いていきたいという。(この章終わり)

寺島英弥
ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授。1957年福島県相馬市生れ。早稲田大学法学部卒。『河北新報』で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)などの連載に携わり、東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地で「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。ホームページ「人と人をつなぐラボ」http://terashimahideya.com/

Foresight 2019年6月30日掲載

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