ホテルニュージャパン火災サバイバーが語る「私はこうして猛火を生き延びた」

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 スプリンクラーさえなく、33人が犠牲になった1982年(昭和57年)のホテルニュージャパン火災。猛火の中で生死を分けたのは、なんだったのか。

「最初の110番通報は2月8日午前3時39分10秒。車庫に走りながら頭をよぎったのは、“想像したことが現実になってしまった”という思いでした。火災の2カ月前、我々はニュージャパンを視察し、“迷路のようだから火が広がりやすいのではないか”と感じていましたし、スプリンクラーの設置がなく、消防署も警告していました」

 特別救助隊隊長で麹町消防署永田町出張所に当直していた高野甲子雄さん(33)=当時=が述懐する。3時43分、現場に到着すると、

「人が熱さに耐えきれず、ドーム型の屋根に落下したのが見えました。隊員の1人が助けようとしましたが、私は“死んでいる可能性が高いから、助けを求めている人の救出が先だ”と命じました。見上げると、シーツを垂らして降りようとしたり、手を振って助けを求めたりしています」

 火元の9階、また10階の救出に向かい、

「屋上に上って“消防隊が来ました!”と叫ぶと、100人近い人が振り返って我々の方を見ました」

 次々と救出したが、屋上に引き上げた3人の韓国人が「部屋にもう1人いる」と言い出したという。

「その部屋を見ると、大爆発を起こすフラッシュオーバー寸前。爆発すると室温は400度まで上がります。部屋に向かいましたが一瞬悩んでしまい、過去が走馬灯のように頭を駆け巡る中、“大火傷をしてもすぐに死ぬことはない”と自分に言い聞かせたのを覚えています。部屋に突入し、救出者の体にロープを巻きつけ外に出ようとしたとき、大爆発が起き、急いで救出者を抱えて窓枠に乗せると2度目の爆発が。全身が炎に包まれ、なんとか屋上に辿りつきましたがヘルメットに炎が入り、頭髪はすべて焼けていました」

 命を賭した救出者は、その後、亡くなったという。

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