ノーベル賞本庶佑博士「小野薬品」への訴訟も視野に、特許使用料は「若手の研究費に」
“金の亡者”といわれた本庶佑博士が「小野薬品」に反論2時間(2/2)
がん治療薬「オプジーボ」につながる「PD―1抗体」の特許使用料をめぐり、“発明者”である本庶佑・京都大学特別教授(77)と薬の製造販売を手がける小野薬品は、長らく冷え切った関係にある。本庶氏へ支払われる特許の対価が、国際的な標準料率と比較してあまりにも低く設定されているためだ。莫大な特許使用料を求めたことで、本庶博士へのバッシングも相次いだが、本人は「若手研究者の研究資金に充てたい」と使い道を語る。
2時間にも及んだ、本庶博士による小野薬品への反論。その後半である。
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〈両社が契約を交わしたのは2006年。本庶氏がそのおかしさに気付いたのは11年のことだったという。13年になって、小野からライセンス料の改定案が提示されたが、それでも相場の半分以下の数字だった。14年、ついにオプジーボに製造販売承認が下される。ところが、アメリカのメルク社が同様のがん治療薬を発売したことで、小野とパートナー社のブリストル・マイヤーズスクイブ(BMS)は、特許侵害訴訟を提起することになった。勝つためには本庶氏の協力が必要だった。〉
14年9月に小野薬品の相良暁社長が京大を訪ねてきて、メルクとの裁判に協力してほしいと申し出がありました。こちらとしては、ライセンス料のことで交渉が続いているし、契約書にないことを依頼されているので、明確な提示がなければ協力できないと答えたのです。すると、
「裁判に協力してもらえるならメルクから小野に入ってくる金額の40%を出す」
と言って来た。40%というと大きいと思うかも知れませんが、当時、BMSと小野は私に無断で、メルクから入ってくる一時金やロイヤリティを75%対25%で配分するという契約を結んでいたので、私の配分はメルクが支払う総額の10%に留まります。そこで、配分を決めるプロセスも含めて異議を述べましたが、せっかくの特許が無効になっても困るだろうからと、向こうの提示条件で折れて訴訟に協力することにしたんです。ずっと揉めていたので、もう疲れたというのもありました。メルクとの裁判ではアメリカで証言台にも立ちました。その結果、17年1月にBMSと小野は勝訴的和解を勝ち取ります。小野からはお礼の電話一本ありませんし、手紙も送って来ませんでしたが、もっと驚いたのは、裁判が終わると小野が態度を豹変させたことでした。
裁判が終わって、阿曽沼慎司さんという京大の理事が小野薬品と話し合いの場を持ったのです。これまで交渉をやってきたけれど、この際、京都大学に基金を作って「小野・本庶基金」という名前をつけて相応額を寄付してはどうかという正式な提案を大学からしたのです。ただし、こちらの算定ではどんなに安く見積もっても1千億円のオーダーになると伝えた。ところが、小野の返事は寄付どころか、
《2014年に相良社長が提示した訴訟協力対価の40%の件は本庶先生がその場で受諾すると言わなかったので無効になりました》
というものです。これには呆れるしかありません。さらに、小野は昨年の11月になって京大に最大300億円の寄付をする用意があるが、小野が13年以降ずっと提示してきた2%及び10%のパッケージ提案と、14年に相良社長から提案があった対メルク訴訟の40%配分は全てなかったことにしたいと、一方的に伝えてきたのです。適正な額に上げて欲しいという交渉をしてきたのに、これでは一方的な値切りの通告です。それでも私は誠実に検討するために300億円の根拠を教えて欲しいと弁護士を通じて連絡をしましたが、返事はなく、今日まで小野からは一切の連絡がありません。
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