「ネトウヨ、パヨク」と「保守、リベラル」は何が違うのか
「ネトウヨ」は、文字通りに解釈すれば、「ネット上で右翼的な発言をしている人」ということになるのだろうが、現実的にはもっぱら蔑称、悪口として用いられている。
この対義語とされているのが「パヨク」で、こちらも単に「ネット上で左翼的な発言をしている人」という意味合いではなく、蔑称、悪口として用いられている。
そのため「私はネトウヨです」とか「パヨクとして一言申し上げますが」という感じで、自称として用いる人は基本的にはいない。
「右翼」「左翼」あるいは「保守」「リベラル」は一つの立場であって、本来悪いことではない。では、そうした立場の人たちとネトウヨやパヨクはどう違うのか。
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こうした疑問から、一つの答を導いたのが、著述家の物江潤さんだ。
物江さんは、福島県出身。現在は、地元で塾経営をしながら、被災地などのフィールドワークを行っている。震災後の被災地での経験や、ネット上での議論などを踏まえて、物江さんが注目したのは「対話の可能性」というポイント。「保守、リベラル」と「ネトウヨ、パヨク」とを分けるのは「対話が可能か否か」というのが、物江さんの考えだ。新著『ネトウヨとパヨク』を出したばかりの物江さんに、話を聞いてみた。
――なぜ「対話が可能か否か」が境界線になるのでしょうか?
「まず、ネトウヨもパヨクも悪口の一種だと考えていいでしょう。これらのレッテルをポジティブな意味で使っている例はほぼ見たことがありません。
その一方で、彼らが自称する保守やリベラルは思想的(政治的)立場であって、それ自体は何ら批判されるべきものではないはずです。
そうすると、ネトウヨやパヨクには何らかのネガティヴな性質があるということになります。しかも、正反対に見えて、両者には共通項がある。
自分自身の経験なども踏まえて到達したのが、対話可能かどうかで分類してしまえば良い、という結論でした。対話可能であればネトウヨやパヨクではない、ということです」
――しかし「対話が可能かどうか」というのはどこで判定するのでしょう? 「バカ」とか「クズ」といった罵詈雑言だって、対話と言えなくもないのでは?
「それは議論のルールを守れるかどうか、で判定すべきだろうと思います。ドイツの哲学者、ハーバーマスは、『議論の参加者は完全に自由で平等だ』という考えを示しています。つまり、特定の人の意見だけが重視されたり、通りやすいような状況は望ましくないということです。
誰かに対するレッテル貼りが罪深いのは、『この人はこういう人だ』と決めつけて、最初から話を聞かない、検討に値しないという姿勢につながるからです。それは議論のルールに反します。
特定の人種を敵だと決めつけてしまうと、最初からその人の話を聞かないことになるので、対話ができなくなります。
また、たとえば安倍政権を支持している人を、知的に劣っているかのように決めつけてしまうのも同様でしょう」
――レッテル貼りさえしなければ、対話は可能なんですか?
「議論のルールは、三つある、と『ネトウヨとパヨク』では書きました。
一つ目は『自らの主張は仮説にすぎないと確信すること』です。自分の主張のみを正義だとする姿勢では、自由な議論はできません。
二つ目は『人の発言権を奪わないこと』です。
特定の人種を『信用ならない』と決めつけて、『あの人は〇〇人だから信用できない』などといった類の発言は厳禁です。逆に、ナチスのように、アーリア人は他の人種より優れている、といった前提もダメです。これでは、それ以外の人種の意見は軽んじられたり無視されたりするため、自由で平等な議論ができません。
三つ目が、『どれほど奇妙奇天烈に思える主張でも、理由付け(論拠)や事実で、その良し悪しを判定すること』です。どれほどおかしく思える主張でも、その内容を検討せずに否定するのは根拠なきレッテル貼りと同じです」
――「対話可能かどうか」で線引きをするというのは正しいのでしょうか?
「もちろん、これもまた私の仮説にすぎません。なぜこのような結論に到達したかといえば、昨年5月頃から、この本を書くために、ネット上のネトウヨやパヨクと呼ばれる人々と対話を試みていたのですが、どうにもこうにも話が通じなかった経験が大きいと思います。
丁寧にこちらの考えを説明したり、ときには相手の言い分に共感を示したりしても、多くの場合、罵倒を含む支離滅裂な反論が返ってきました。建設的な議論などはまったくできず、空しい思いをしました。
例えば、何でもかんでも安倍首相のせいにしたがる人たちがいました。たしかに総理大臣なのですから、いろんなことに責任はあると思いますが、なかには、元TOKIOの山口達也氏の不祥事すら、政権に原因を求める方々までいたのです。こうなると対話のしようがありません。
また、何でもかんでも在日韓国人・朝鮮人のせいだと主張する方々もいました。加計学園問題の裏でそういう人たちが暗躍しているとか、そうした主張に対して、根拠などをお尋ねしても、そのように考える理由は返ってこず、単なる結論や罵倒ばかりが跳ね返ってくるのです。
議論のルールを守れる人々は完全に自由で平等だとするならば、そうした人々に対してネトウヨやパヨクといったレッテル貼りをしてはならない、つまりネトウヨやパヨクではないという主張が導けます。そしてその主張は、先ほど申し上げたフィールドワークから得た経験とも合致しています。ネトウヨやパヨクといった言葉は好きではありませんが、線引きをするのであれば『対話可能かどうか』が妥当だと思います」
――そのへんが「保守」「リベラル」との違いということですね。
「本来、保守は人間の理性を疑うという立場です。その疑う対象には自分も含まれますから、異なる主張の人たちと対話せずにはいられないはずです。
また、リベラルは人間の理性を基本的に信頼するという立場です。ということは、たとえ反対意見だとしても、理性的であれば喜んで対話をするでしょう。
いずれの場合も、他者との対話ができないなんてありえないわけです」
――本の中では、そういう人は必ずしもネット上のみにいるわけではない、とも述べていますね。
「自らの正義を疑わない人はいつの時代もいるのでしょう。連合赤軍のメンバーも、もともとは格差をなくしたい、貧しい人を救いたいといったピュアな正義感を持っていたはずです。しかし、いつの間にか自分たちの正義を実現するためには、暴力も容認されるという考えに発展してしまいました。
その結果、彼らは多くの犠牲者を生みます。仲間内のリンチなどで多数の死者を出してしまいました。
2.26事件の将校たちも、国のために行動を起こしたのでしょうが、客観的に見ればテロ活動でしかありません。この時は大臣など9名が殺されています。
独りよがりの正義を信じる人たちは、決して自らの過ちを認めません。それによって被害は広がります。
ネトウヨは『反日』『売国』を、パヨクは『国粋主義』『排外主義』を諸悪の根源と確信していますが、本当の諸悪の根源は、独善的な正義の味方である自分かもしれない、という視点が必要なのではないでしょうか」