【魂となり逢える日まで】シリーズ「東日本大震災」遺族の終わらぬ旅(1)
東日本大震災から8年が過ぎ、時は平成から令和へと移った。
被災地をめぐって流れる時間がもたらしたものを、風化といい、過去といい、再生といい、復興という。そして、それらの言葉からも傷つけられ、喪失の痛みに絶えず死を思い、終わらぬ悲しみの渕に黙然と生きてきた人々がいる。
あの日、我が子らを津波で失った遺族。
震災の取材で出会い、縁を重ねた親たちを再訪した。聴いたのは「また会える」という言葉だ。
人は極限の苦しみから何によって生きる力を得、愛する者の魂のありかをどこへ求めるのか――。
檀家の犠牲者172人
冬の名残の風に吹かれた強い雨が、100体余りの小さな石仏の赤い帽子と衣を濡らしていた。賽の川原で亡き子どもの魂を救う地蔵たちだ。傍らには、お供えの黄色やピンクの菊。
2019年3月11日の朝。宮城県石巻市門脇町にある浄土宗西光寺の本堂に、黒い喪服の檀家衆が集った。8年前の津波で亡くなった犠牲者たちの九回忌法要。樋口隆信住職(86)を導師に、手を合わせる人々が共に表白(供養願文)を読み上げた。
「檀信徒の横死者、行方不明者は172名に上りました。甚大な被害は広域にわたり、檀信徒の実に7割が被災。家屋は一瞬にして流出、焼失し、墓石のほとんどが痛ましい姿になってしまいました。大地震発生より8年が経過しましたが、人々の悲嘆は癒えることはありません」
「参列者と共に、亡くなられた人々と動植物やすべての命の仏果増進を真心込めてお祈りいたします」(注・石巻市全体の死者は3277人、行方不明者は420人)
九回忌法要はこの朝と、大震災発生時刻の午後2時46分を挟んで2度目の追悼供養が行われ、併せて約250人の参列者、そして各地から参じた僧侶たちが加わって唱える「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」が永遠とさえ思われる時間、線香の煙に霞んだ本堂に響き続けた。
九回忌法要から数日後の西光寺境内。副住職の樋口伸生さん(56)が作務衣姿で、雨風で墨の文字がにじんだ3枚の卒塔婆を手にして見せた。法要で遺族に新しい卒塔婆を手渡し、前年のものは炊き上げる。それぞれの戒名の下に、平易な文が書かれていた。
〈命の営み、人生の道のりは苦しいものである〉
〈ひたすら清く善い事を求めて、体得した力を人々に惠み与えます〉――。
戒名の意味を、遺族にも亡き人にも丁寧に伝えたいのだという。
「この人たちは一緒に逝った親子3人なんだ。3月11日までに卒塔婆1枚1枚を書き上げるのに、ひと月掛かりだったよ」
元和元(1615)年に創建された西光寺は、市街を一望できる日和山(海抜56メートル)のふもとに広い本堂と墓域がある名刹だ。
「8年前の津波はここまで来た」
と、樋口さんは本堂入口の柱に手を伸ばした。およそ2メートルの高さに、その津波の跡が残っている。
荒れ果てた墓地
被災前には約1700世帯、約4800人の暮らしがあった門脇町と、街続きの南浜町。明治時代に貨物船の港ができ、大正期からは魚菜市場開設や広大な埋め立て事業が活気と町域を広げ、昭和前期の東北大凶作の際には救済事業として国策パルプ工場(現「日本製紙」石巻工場)が操業し、両町は発展した。往時のにぎわいを、震災後の取材者であった筆者は知らない。
初めて西光寺を訪ねたのは、2011年12月の暮れだった。
北上川河口のある海岸線から日和山のふもとまで、膨大ながれきの山は撤去されており、あるのは空襲の跡のような「虚空」と呼ぶほかない地平だった。津波襲来と直後の火災にさらされた門脇小学校の黒焦げの校舎だけが、無言のモニュメントのように立っていた。
門脇小の北隣に、荒れ果てた西光寺の墓地があった。寺の本堂と隣の会館、庫裏も津波の被害を受けていた。潰された家々の残骸や車などが濁流とともに押し寄せ、山門を倒壊させ、約1000基の墓石があった境内を埋めた。見渡す限り横倒しになった竿石、首の取れた石仏、掘られて骨壷がむき出しになった墓、無残に割れた墓碑銘、「○○家」と整理札を貼った墓石が並べられていた。3月11日から時間が止まったかのようだった(冒頭写真)。
復旧作業に奮闘してきた樋口さんは当時、「これでも見違えるくらい、きれいに片付けられたんだ」と語った。
「全国の寺の仲間、石材商の組合、ピースボートなどのNPO、いろんな職場の人たちも、実にあらゆるボランティアがお盆前に来てくれて、がれきや土砂の撤去に汗を流していった」
訪ねたその日、本堂では床の張替え工事が終わって畳が敷かれたばかりだった。本尊の阿弥陀仏の傍らには「110柱まで分かっている」という檀家の犠牲者たちの遺骨の箱があり、「墓を直す日まで一緒に供養しましょう」と遺族から預かっていた。
津波に運命を変えられたのは、死者も残された生者も同じだった。被災地の寺で供養を続ける者もその1人。
「8年たっても、遺族にとっては何も終わっていない」
と樋口さんは言う。
九回忌法要の日、念仏斉唱の輪を少し離れ、喪服で祈る女性たちの姿があった。月命日の毎月11日、西光寺で「蓮の会」という語り合いの集いを催している遺族で、津波でわが子を亡くした母親たちだ。2012年2月に会を立ち上げ、毎年3月11日に必ず朝から樋口さんの法要の手伝いをしている。
会の名前は「来世に、蓮の花の台(うてな)でまた会いましょう」という古歌から取られた。震災直後、被災した寺を顧みず枕経に歩いた副住職と、絶望の渦中にあった母親との間で交わされた、ある言葉から物語は始まった。
大津波に追われて
西光寺と関わる人々にあの日、どんなことが起きたのか。樋口さんが回想した。
「大地震が起きた時、庫裡の茶の間でパソコンを開けたところだった。前々日まで有志で韓国を回り、現地の被差別集落やハンセン病患者の施設を訪ねた。そのリポートを書こうとしていた」
激烈な揺れの中、家族に避難を促したが、隆信住職は「寺の住職たる者、寺と運命を共にする」と言ってきかず、樋口さんは父親にむかって初めて「馬鹿野郎」と怒鳴った。寺の外の防災無線が津波警報を伝え、時間を追って波高予測を「3メートル」「6メートル」「10メートル」と上げて、まくしたてるように避難を呼びかけていたからだ。
やむなく父母を寺に残し、妻、高校2年の長女と3人ですぐ裏の日和山へ通じる石段を上った。すでに数えきれぬ人が殺到し先を急いでいた。前の日に胃がんの手術をしたという知人、身内の納棺を済ませたばかりの檀家もいた。
「ある女性は、義理の姉が『家に残るから』と言って動かず、近所の人から『やむを得ないから、残して逃げろ』と急かされて避難した。義理の姉は、その後しばらくして遺体で見つかった」
石段を駆け上がる避難者たちの背後では、目を疑う大参事が起きていた。
折から天気は雪に変わり、視界を覆うほどの雪煙の向こうの海から黒い津波が襲来した。
一方通行の道を逆走して逃げようとする車を次々とのみ込み、海岸沿いから続く町並みをバリバリと音を立てて押しつぶし、流される家をくるくるとこまのように回転させた。それらが塊となって日和山の下に押し寄せた。妻多恵子さん(51)がそばで「やめて、やめて……」叫んでいた。
「がれきや車が寺の境内を埋め、屋根しか見えなくなった。数えたら家が9軒流れ着いていた。父母は死んだと覚悟した」
隣の門脇小でも避難行が繰り広げられた。地震の後、児童230人が日ごろの津波を想定した避難訓練を生かし、日和山に無事に上った。校庭に避難してきた人々もおり、津波の襲来と火の手に迫られて、教壇を橋のように校舎裏の斜面に渡して懸命に逃れた。
極限状況で始めた枕経
樋口さんが日和山の石段を下ったのは夜7時半ごろ。星空の明かりで寺への道が見えた。
本堂脇で「おーい」と呼ぶと、「おーい」と隆信住職の声が返った。両親は寺の2階に上がって無事だった。
門脇小5年の次男は全校児童と一緒に避難し、日和山の上にある門脇中2年の長男もバレー部の練習で居残っていて助かり、門脇中体育館の避難所で再会できた。
樋口さんは家族で力を合わせ、寒気が募る体育館に寺の布団を運び上げ、体力のない檀家の高齢者に配った。だが、その間にも親しい人々の遭難が伝えられた。
「同じ中学の子でも、部活の練習が休みだったために帰宅して亡くなった子がいる。寺に避難した檀家の80代の知人は次の日、皆が『やめろ、やめろ』と言うのを振り切って自宅を見にゆき、行方不明になった。がれきの山の中で救助されたが力尽きたといい、運悪く名前を控えられずに火葬されて、何カ月か後に骨のDNA鑑定で身元が分かった」
「門脇中にいます」。本堂前にこう書置きをし、避難所の活動を手伝う姿が人の目に触れるにつれて、樋口さんの前に切実な相談者の列ができた。
「家族が死んだ」「どうしたらいいか」。
被災地で次々と収容された犠牲者たちがブルーシートにくるまれ、懸命に身内を捜す人々と遺体安置所で対面をしていたころ。
「停電中で暗い葬儀社のホールに、ご遺体の棺が40~50も並んでいた。そこへ呼ばれ、お顔を確かめ、念仏を上げた」
こんなことになって生きていく気持ちが湧かないという遺族には、「いまは祈るしかない」「早まっちゃだめ。自死なんて考えないで。棺の中の家族が一番苦しむ」と諭した。
泣き叫びながら順番を待つ家族がおり、出棺の時間に迫られる葬儀社からは、やむなく5分か10分の枕経をお願いされた。「せめて30分、別れの時間をやってほしい」という僧侶の思いと、戦場のような現実が悲しくせめぎ合った。
遺族に付き添う日々
津波被災地の自治体では犠牲者の数に火葬が追いつかず、3月下旬には仮埋葬(土葬)の準備も始まった。いつ葬式をできるのかも定かでなかった。
「向き合った家族にいつまた会えるかも分からず、その空白の時間が心配だった。『いまこの時、そしてこれからが大事な時間』だった。いままでの自分の中の枠も外し、やれることを全力でやるしかなかった」
極限の理不尽を負わされ、目の前で泣き崩れる人々に何を語れるか。それは、宗教者として何をしなくてはならないか、の問いを突き付けられた時だった。
「ぶんなぐられても仕方がないくらいの覚悟で遺族の中に入った」
と樋口さん。
重なったのが、以前「東北新生園」(宮城県登米市)など全国のハンセン病療養所を訪問した経験だ。想像を絶する辛酸をなめた元患者たちの人生に耳を傾け、共同風呂に一緒に浸かって「お前たち坊主たちからも差別された。宗教にも捨てられたんだぞ」と、思ってもみない厳しい事実を語られた。
檀家ではない遺族たちとも出会った。火葬場で収骨に最後まで付き添っていると、待っていた別の家族がおり、同市釜谷の大川小学校で亡くなった子どもの遺族だった(同じ3月11日の津波で児童74人と教職員10人が犠牲になった)。
「一緒にお骨を拾わせていただいていいですか」と尋ねると「和尚さん、ぜひに」と許され、その子の骨の一片を、妹の手のひらに載せて握らせたという。
「温かいだろう。お兄ちゃんの温かさなんだよ」
と言ってあげると、そばで父母も泣いた。
津波被災地への支援で、東北各地の自治体が犠牲者の火葬を受け入れた。
「みんな家も車も流され、お金もない。霊柩車もない。そこで観光バスを頼んで、荷物を積むトランクにお棺を入れて、遠距離の火葬に掛かる往復7~8時間、せめてその間だけでも寄り添おうと思った。お骨を拾うまで、亡くなった人のこと、仏教のこと、家族のこと、どう祈ればいいかということを、ずっと話をさせてもらった」
宮城県の大崎市、鳴子町、岩手県の一関市、秋田県の湯沢市、山形県の山形市、米沢市、寒河江市、河北町。
「遺族たちと丸一日を一緒に過ごし、大事な人の骨を手に持たせる経験を何度もしてもらった。『お布施なんていらないよ、おにぎり1つとウーロン茶で十分だ』と笑い、帰時には温泉に立ち寄ったりしてささやかな慰労もし、親戚のようになった」
同じ苦しみ、悲しみの中で
樋口さんが火葬へ付き添ったのは約50回、檀家の犠牲者の数にして172人を数えた。
「その日々が丸々1年は続いた。津波の翌年、一周忌を過ぎた3月12日にお葬式をした家もあった」
行方不明の期間が長引くと、ぽつぽつと骨の形で犠牲者が見つかるようにもなった。
「破片のような骨と向き合う遺族は、さらにきつい思いをした」
3月11日は、合同の追悼法要を「命日」として行ってきたが、「愛する者が見つかった日が命日」と受け止める遺族にはいまも少なからず違和感があるという。「だから、できる限り思いに沿えるよう、遺族たちと話し合ってきた」
震災後、西光寺の本堂の一角には、火葬を済ませたお骨の箱がたくさん並んでいた。
「寺で、2つの家の供養が重なる時もあった。日常にはないことだが、『みんなでお祈りしましょう』と長い数珠を一緒に回した。『どちらも同じ悲しみ、苦しみの中にいるんだよ。いたわり合いましょう』と声を掛けて。火葬場で別の遺族が一緒になった時も、互いに焼香し合おうと話した。あの状況だったからこそ、やれてよかった」
立ち会ってつらかったのは、地元の火葬場の受け入れが間に合わず、仮埋葬を選ばざるを得なかった遺族たち。「家族の3人を津波で亡くした檀家の友人がいる。先に奥さんと娘さんを仮埋葬した後、お父さんの遺体が見つかった。『一緒に火葬してあげたい』と、同じ場所に埋めた2人の遺体を掘り起こし、新しい棺に収めて火葬場に向かった。『やっと家族一緒になれたな。待たせて申し訳なかった。せめて一緒に焼いてあげるからな。ごめんよ、ごめんよ』と友人は号泣していた」
この世とあの世の境とも思えた被災地で枕経を続けた日々の中で、樋口さんは、わが子を亡くした1人の母親と出会う。(この項つづく)