渋谷・表参道は「焼死体の山」となった――米軍が実行した残虐な「山の手空襲」とは
今から74年前の1945年3月10日、深川、本所、両国、下谷など、東京東部を襲った東京大空襲。一晩だけでおよそ10万人が亡くなり、100万人以上が罹災した。毎年その日には、墨田区横網にある都慰霊堂で慰霊祭が行われる。今年3月の慰霊祭には秋篠宮ご夫妻も参列、遺族ら約600人が御霊を慰めたという。
しかしあまり知られていないが、帝都への大規模空襲は、何もその日を境に終わったわけではなかった。東京は1944年11月から翌年8月の終戦までに130回にも及ぶ空襲を受けているが、3月の大規模空襲「下町空襲」に対し、4月と5月、東京全域を襲った4度の大規模空襲が「山の手空襲」である。
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名古屋、大阪、神戸などで無差別市街地爆撃を繰り返した後の4月13日、米軍はB29、330機(米側発表、以下同)の編成で東京に戻ってくる。赤羽、豊島、王子、小石川、新宿等々の地区を襲い、このとき、皇居とともに明治神宮も罹災している。
この6月で「東京大空襲・戦災資料センター館長」を退任することとなった早乙女勝元氏の著書、『写真版 東京大空襲の記録』には、その日の空襲の様子が克明に記されている(以下、〈〉内引用は同書)。早乙女氏は1932年生まれ、自らも大空襲の被災者だ。
〈4月13日、敵はまたしても大挙してやってきた。
夜11時過ぎからB29 160機(米側発表330機)が、深夜3時間余にわたって赤羽の兵器廠(へいきしょう)地区を主に、豊島、王子、小石川、荒川、四谷、牛込、麹町の各区を襲い、爆弾・焼夷弾を混投した。爆撃の照準は、下町地域から山の手地域へと拡大したのである〉
『戦艦武蔵』などの記録文学で知られる作家の吉村昭は、当時17歳。家族と日暮里に住んでいた。その夜の経験をこう綴っている。
〈4月13日夜、私の町の上空にB29が低空で飛び交った。その機体は巨大な淡水魚のようにみえ、その腹部から焼夷弾がばらまかれた。裏手の家の中でも炎が起り、私はバケツを手に消火に赴こうとした。その時、父が、
「お前一人で消そうとでもいうのか、早く逃げろ」
と言って、先に立って路上に出て行った〉
当時、消防は、空襲による火災の消火を市民に押し付けていた。といっても、出来ることは「バケツリレー」の類。避難よりも消火活動をという指導により、人的被害が大きくなったと、戦後になって指摘されている。
さらには2日後の15日には、B29が340機の編成で、東京西部、世田谷、目黒、大森、蒲田など広汎(こうはん)な地域に焼夷弾を投下していった。この両日で、約3300人の死者が出ている。
そして名古屋を潰滅させた後、米軍は再び東京上空へ。
〈(4月)17日午後2時、またまた3600トンが投下され、名古屋市内は半分以上を失い、そして、いよいよ東京の焼け残りの町へ第3次大規模空襲の火の雨が降りそそぐことになる。
5月24日が、まずその前哨戦で、この日未明、空襲警報のサイレンと同時にB29 250機(米側発表525機)が都内西部方面に侵入、2時間余にわたる無差別攻撃を行なった。投下焼夷弾は3600トンに達し、これで大森、品川、目黒、渋谷、世田谷、杉並の各区に大火災が発生、警視庁調査で死者762名と、負傷者4130名を出した〉
さらに凄惨を極めたのは、翌日の大規模空襲だった。25日深夜、B29 470機が東京上空に現われる。
〈まだ焼夷弾の洗礼を受けていない東京の残存地区に向けて、油脂、黄燐(おうりん)、エレクトロンの各種高性能焼夷弾3200トンを一挙に投下した。3月10日下町大空襲の実に2倍近い焼夷弾の量である〉
警視庁の調査によると死者は2258人、負傷者8465人。被害地域は山の手方面を中心に、全都にわたった。現在の青山通り、表参道から渋谷に続く道には焼死体が積み重なっていたとの証言もある。渋谷、青山、麹町等だけでなく、足立、荒川、板橋、西は杉並、世田谷、南北多摩郡にまで被害は及んだ。
戦後、アメリカから「米国戦略爆撃調査団」が来日している。焦土となった日本の各地で、爆撃の被害結果を調査し、分析にあたるためだった。その報告書には、次のようにあったという。
〈ここまで3次にわたる大規模な都市無差別爆撃によって、東京は全市街地の50・8パーセントに当る56・3平方マイルを焼失し、(この5月25日の「山の手空襲」の後、)「名古屋とともに焼夷弾攻撃目標リストからはずされた」〉
焼き尽くされた東京は、こうして米軍の攻撃目標から外されたのだ。